第九十一夜 三橋敏雄の「かもめ」の句

  かもめ来よ天金の書をひらくたび 『まぼろしの鱶』 
  
 解釈は次のようであろうか。
 
 第一句集の最初に置かれた句である。「天金の書」とは、洋書の製本で、上方の小口だけに金箔をつけたもの。読みながら洋書のページを捲ってゆくと、金箔がカモメの飛翔する形にも見えてくる。そこを「かもめ来よ」とした。真っ白なカモメは、ページを開く度に金色の翼となって飛んでくる。
 この作品は「かもめ」を冬の季語として詠んでいるのではなく、無季派の作者として詠んでいる。
 三橋敏雄の全句集から作品を見てゆくと、俳句を作り始めたのは昭和十年からであるが、句集を作ったのは凡そ三十年経った戦後の昭和四十一年である。一句目の作品は原句から推敲を重ねてこの形になったという。金色に輝いて飛んで来いと呼びかける白いカモメは、そうなりたいと願う三橋敏雄自身の姿なのであった。
 
 三橋敏雄(みつはし・としお)は、大正九年(1920)―平成十四年(2002)、東京八王子生まれ。俳句のきっかけは最初の勤務先の現在のトーハン(書籍の取次店)であった。昭和十年、十七歳で当時の新興俳句に共鳴して水原秋桜子の「馬酔木」や「句と評論」へ投句。戦争を詠んだ作品〈いつせいに柱の燃ゆる都かな〉に山口誓子が激賞し、新興俳句無季派の新人として登場する。渡辺白泉、西東三鬼に師事するようになる。大戦中の敏雄は、渡辺白泉とともに古俳諧研究をした。
 昭和十八年、召集を受け横須賀海兵団に入団。昭和四十七年まで運輸省所属の練習船事務長として日本丸、海王丸などに勤務した。戦後はしばらく、戦没遺骨を収集しそれを輸送する任務を遂行していた。
 
 平成三年、七十一歳で亡くなった時の辞世の句は〈山に金太郎野に金次郎予は昼寝〉であった。そこには「足柄山の金太郎」と二宮尊徳の別称「さがみ金次郎」が、第一句目のカモメと同じように金の姿として詠まれている。三橋敏雄の句集とは、俳句人生を懸けた用意周到な句集だったのだ。
 
 全作品を通して感じたのは戦争への思いを貫いていることである。古代からつづく争いで炎上する都や、団扇に象徴される日常への眼差(まなざ)し、そして戦争を繰り返す人間の宿命。こうした作品は歳月を超えて残されるべきであろう。いくつか紹介してみよう。

  昭和衰へ馬の音する夕かな 『眞神』
  手をあげて此世の友は来りけり 『巡禮』
  戦争と畳の上の団扇かな 『畳の上』
  戦前の一本道が現るる 『畳の上』
  あやまちはくりかへします秋の暮 『畳の上』