第三十四夜 百万本清の祝八十寿

 夫の荒木清のことをきちんと書いておきたい。昭和18年(1943年)4月29日、荒木清は長崎県平戸市保立町に生まれた。百万本清は俳句会で用いていたもので本名は荒木清で夫である。出会ったころは現在の筑波大学哲学科に在籍していた。荒木と私は、お互いに教職課程を取っていたことから教育実習で行った東京鷺ノ宮の中学校で知り合った。荒木は1年浪人したので4年生、私は青山学院大学英米文学科の3年生、教育実習の最終日に打上げをした時に互いに住所を交わした。
 荒木の実母きめこが亡くなったのは、卒業間近のことであった。卒業後は長崎に戻り、長崎県立東高等学校の社会科の教員となることに決まっていたが、このときには私たちは結婚すると決めていた。 
 長崎に戻る前に、川崎重工に勤務する長男の兄に紹介してくれた。荒木が長崎に戻った年の夏休み、私は母と一緒に長崎島原市の、荒木の実家にご挨拶に行った。実母きめこは亡くなって2年が過ぎていた。荒木の父は長崎県中学校の校長会の副会長を務めていて、県内を忙しく飛び回っていた。その実家には既に、再婚して家をきりもりする母のハルエがいた。
 私にとっては、姑となる母はハルエさんである。
 だが、わが家の仏壇には荒木の実母のきめこさんの写真が真ん中に飾られている。

■今宵は、夫である荒木清が80歳を迎えたことで、祝句を2句詠んでみた。

 1.囀りのこぼれんばかり祝傘寿  あらきみほ
 (さえずりの こぼれんばかり しゅくさんじゅ)

 3年前はコロナ禍の前であり、荒木自身が原稿を書くことも忙しかったし若き日の続きの飲み会での午前様も多かった。最近は東京へ出かける回数もぐんと減り、午前中も午後も畑で野菜づくりや苺づくりに勤しんでいる。
 守谷市のわが家から畑へ向かう道は野原が広がり、その周りには森や林があって、「ピーピー」「ピースピース」と鳴く小鳥の声がにぎやかである。この道を、犬のノエルと朝の6時と夜の7時の散歩をしている。
 夫が80歳になった朝を言祝ぐかのように、囀りのなんと姦しいことであろうか。

 2.胡蝶とぶ百万本のゆめのなか  あらきみほ
 (こちょうとぶ ひゃくまんぼんの ゆめのなか)

 ここでは故事を詠み込んでみた。「胡蝶の夢」とは、荘子が夢の中で胡蝶(蝶の異称)となり、自分と胡蝶との区別がつかなくなってしまったという故事のことである。この故事を踏まえて百万本自身が、夢の中で莊子と同じように胡蝶になって飛んでいるというのだ。まだまだ自由を謳歌している百万本である。

 3年前に、百万本が77歳になったときに私が詠んだ祝句は次のようであった。

  ためらわず弥生の天に喜寿となり
 (ためらわず やよいのそらに きじゅとなり

 「ためらわず」は、あれこれ思い悩んで踏みとどまるのではなく、すんなりと、喜寿を受け入れてしまいましたよ、となろうか。