第四十夜 夫の畑のほうれん草

 守谷に住みはじめて12年は経ったろうか、夫は毎朝のように、南へ向かって犬と朝の散歩をしている。途中から舗装されていない南への畑道となる。その畑の一角を借りて、現在の夫は野菜づくりを楽しんでいる。

 忘れもしないが、守谷市に越してきた翌年の2011年の3月11日、東日本大震災に出遭った。
 夫は大きなスーパーマーケットに買物に出かけていて留守。まだ私が揺れを感じる前であったが・・犬のオペラが足元へすうっと寄ってきた。この時のわが家の犬は、一頭目の黒のラブラドールレトリバーのオペラであった。
 やがて揺れが始まった。いつまでも続く揺れであった・・2人の子どもは其々の部屋から1階のリビングへ降りてきた。後で知ったが、マグニチュード9という超巨大地震であった。揺れは3分ほどであったというが揺れは止まらないのではと思うほど長く感じた。廊下の本棚から本がバサバサッと落ちてくる。食器棚の戸は壊れなかったがお皿の破損はかなりであった。時計を確認したのは揺れが収まってからだったが、地震が起こったのは14時46分18・1秒だと夜のニュースで知った。
 揺れが収まってから食器棚と本棚を片付けはじめた。この日は、いつもは手伝いもしない息子の方がテキパキと動いて大活躍をしてくれた。

 夫が畑を借りて野菜を作るようになったのは、その後のことである。

■いま盛りのほうれん草を詠んでみよう。

  夫愛すほうれん草の紅愛す  岡本 眸
 (つまあいす ほうれんそうの べにあいす) おかもと・ひとみ

 岡本眸さんのご主人は、ほうれん草が大好きで、ことにほうれん草の根本が赤く見えるほど濃いピンク色のほうれん草を、愛すると言ってもいいほどに好きなのだという。
 赤い部分はポリフェノールの一種のベタシアニン含有量が多い証拠であり、赤みが強いほうれん草は寒い冬に凍結してしまわないよう糖分などの栄養素を蓄えるため、根本の赤みが増すのだといわれている。
 
  あぶらげとほうれん草と夢すこし  藤田湘子
 (あぶらげと ほうれんそうと ゆめすこし) ふじた・しょうし

 藤田湘子は、水原秋桜子の「馬酔木」入会に始まり石田波郷と出会いがあり、後に結社「鷹」の主宰者となっている。弟子に飯島晴子がいる。大正15年に生まれ平成17年に亡くなった、二物衝撃の作品に力を入れた俳人である。
 この作品を見つけたとき、確かに小さな驚きが走った。だが「あぶらげ」と「ほうれん草」を一句に並べて、果たして二物衝撃と言えるほど強さを感じさせる作品になるであろうか・・という思いも走った。意表をつかれたのが下五の「夢すこし」である。あぶらげとほうれん草・・なんとも普通の残りものの取り合わせではないか。
 だが食べたらおいしかった! 料理はいつだって、材料のかけ合わせだから、魔法のように美味しくなる場合だってあるのだ!

  愛されずして沖遠く泳ぐなり  藤田湘子
 (あいされずして おきとおく およぐなり)

 わが人生の中で、この作品にあるような、とことん拒絶されたことはなかったように思っているが、どうだろうか。例えばこの恋は実らないだろうと・・振られる前に自ら終わりにしてしまっていたのかもしれない。
 
 藤田湘子は、「馬酔木」の水原秋桜子の弟子であり、才能豊かであった湘子は師から才能を認められるようになったが、やがて理由は定かではないが秋桜子の勘気に触れることになった。師の秋桜子から口もきいてもらえなくなった。秋桜子が弟子の湘子の才能に嫉妬したからともいわれている。
 湘子は、愛されていないと感じたとき、一人でどこまでも納得できるまで、どんなに遠くまでも泳いでいったのだろう。