第四十八夜 「囀りや」の句

 片山和子さん! 有難うございます! 八成小学校は私にとっても特別な思いの3年という月日でした。飯口正子さん、懐かしいですね! 杉並区下井草のわが家の目の前はひこばえ幼稚園がありました。そこでの日曜学校時代、仲良しだったことを覚えております! 櫛引梢さん、森本紀美子さん、学校帰りが同じ方角で、奥村暁子ちゃん、柴田由紀子ちゃんと一緒に歩いていた光景が浮かびました!
 男の子で印象的なのは、6年2組で同じ後部座席でよくお喋りしていた笠松くん、前畑くん、伊藤くんを思い出します! 後に僧侶になられた笠松くんが、片山和子さんとともに、私の母を送る際の葬儀と告別式の一切を取り計らってくださいました! 
 PTA会長をしていらしたのは辻野五郎丸くんのお母様、副会長をしていらしたのは片山和子さんのお母様ではなかったかしら・・。
 和子さんを思う光景があります! 6年生だったと思いますが、早退してゆく後ろ姿です! 後に気づいたのですが、私立中学の受験の塾に通っていたのですね! 勉強熱心なお母様でした!
 青山学院大学では、三木勇三君が一年後輩として入学され、アドグル(アドヴァイザーグループの略で、教授を囲む会では旅行をしたりダンスパーティをしたり)で、偶然一緒になりましたが、三木くんは途中でアドグルを辞めました。確か、クラリネットが上手でした。
 久芝会の案内状では名を拝見しませんでしたが・・お元気でしょうか?

■八成小の俳句

 1・囀りや 八成小へ お引つ越し  あらきみほ
 (さえずりや はちなりしょうへ おひっこし)

 八成小学校の広い敷地は三木君の家の麦畑であったと後にお聞きしました。私たちが4年生の時、これまで通っていた桃井第5小学校の生徒たちに見送られて、ランドセルを背負って、西武新宿線の踏切を越えて、新設校の八成小学校まで歩いてお引っ越ししました。西武新宿線の下井草駅側に面した入口から八成小学校の校庭へ一歩を踏み入れたときの、足裏の草の感触がふっと蘇るようです。
 もうあれから70年近い月日が過ぎました。

 2・四月始まる 最上級生 四年生
 (しがつはじまる さいじょうきゅうせい よねんせい)

 昭和20年生まれの私たちは、八成小学校で最上級生として丸3年間を過ごしたことになります。今思うと、誰もが味わうことのない素晴らしい貴重な体験でした。

 3・草とりの 全校生徒 横一列
 (くさとりの ぜんこうせいと よこいちれつ)

 新設校は広い麦畑であった地に建てられたので、広い校庭にはつぎつぎと草が生え麦も生えてきます。春から夏は、横一列に並んだ全校生徒が久田先生の吹く笛の合図で順番に移動しながら草とりを始めるのでした。
 この句を詠んだのは最近のこと。山本くんから「久芝会」の案内状を戴いた私は、2年前に転倒して右大腿骨頸部骨折をして、現在も杖をついている身で、茨城県守谷市から東京で開催の会合にはとても行けないと思った私は、八成小学校時代のことを俳句を詠んで色紙にして皆様にお送りした10句の中の句でした。
 
 4年生、5年生の2年間は、久田芳(ひさだ・よし)先生がお一人で60数名の生徒の担任をされ、6年生になると、久田先生は1組、新任の芝崎春子(しばざき・はるこ)先生が2組の担任になりました。私は2組でした。芝崎先生から見ると、私は久田先生に捨てられたみたいにショボンとしていたそうです。卒業してからも心配してくださっていました。
 驚いたのは、結婚して長崎に行き・・5年ほど経って、長崎から夫婦して東京に戻り、念願だった出版社蝸牛社の経営をスタートしていた頃、芝崎先生が当時住んでいたわが家にひょっこり訪れてくださったことでした。昔から先生方と友人には必ず年賀状を出していました。
 お陰でその後も、久田先生や芝崎先生、青山学院高等部の担任だった田中先生ご夫妻の家に遊びに行ったりしていました。田中先生の奥様とは卒業後に始めた深見けん二先生の俳句教室でご一緒しました。
 「もしかして、重石ミホさん?」「えっ、はい!」「年賀状の住所と同じだから!」と、言われて驚いたことがありました!