第三十六夜 妻より林檎うく 中村草田男 

 私は、2009年に植物細密画家野村陽子さんと共著で中経出版から『細密画で楽しむ 里山の草花100』を出版した。その中のⅤ章に「リンゴ(林檎)」を書いているので紹介させていただこう。

 「林檎の樹を見ると、学生時代の英語の先生の話を思い出します。
 リンゴの花の咲いている下で、少年と少女と仲よくお喋りをしていたとき、少女のことが大好きな少年は、「一回だけキスしてもいいかい」と聞きました。
 まだ幼い少女はとても困りましたが、少女だって少年が好きです。
「いいわ、このリンゴの花が真っ赤なリンゴになったらね」と、答えました。
 翌朝、またやって来た少年は、再び少女に言いました。
「キスしてもいいかい。ほら、木に赤いリンゴがなっているよ」
 少女がリンゴの木を眺めると、そこには少年が昨夜、一生懸命に描いた赤いリンゴの絵が木に結わえつけてありました。」

 この話は、私が青山学院大学1年のフォネティック(音声学)の最初の授業で、老教授がapple の発音記号の練習の際にしてくださった話である。発音記号の〈a〉と〈e〉の中間の音は口の形も音の出し方もむつかしい。18歳の少女の多いこのクラスは無情で、老教授が、窄めて発音する口の形にクスクスと笑いだしてしまった。まるでキッスされるのではないかと逃げ回っているかのように・・!

■今宵はリンゴの作品をみてみよう。

 1・空は太初の青さ妻より林檎うく  中村草田男  句集『来し方行方』
 (そらはたいしょのあおさ つまより りんごうく) なかむら・くさたお

 昭和21年、句集『来し方行方』所収の作品。今、私の手元に宮脇白夜編著『草田男俳句365日』がある。その11月21日に置かれた掲句の鑑賞とあとがきから書かせていただいた。
 「敗戦の翌年の作で、当時最も愛唱され、喧伝された句である。この句には「居所を失ふところとなり、勤先の学校の寮の一室に家族と共に生活す」という前書きがある。その寮は板の間であり、しかもその中心に妻直子のグランドピアノが置かれてあって、極めて手狭であった。しかし原始人草田男に不満はない。空には太古の昔と変わらぬ青空が拡がり、手の上には妻が剝いてくれた林檎がある。彼はアダム・妻はイブ。神話の中のはじめての人間と何ら変わるところはない。むしろそれは、敗戦後も”無”からのスタート、すなわち再生にふさわしい状況ではないか。(略)」

 2・りんごもぎ一つ一つにちがう顔  岩手県丑石小 菊池 努 『子ども俳句歳時記』
 (りんごもぎ ひとつひとつに ちがうかお) うしいし小 きくち・つとむ

 金子兜太監修『子ども俳句歳時記』は、「炎環」主宰の石寒太、「蕗」主宰の倉田紘文、「青山」主宰の山崎ひさを、日本学生俳句協会事務局長の水野あきら、炎天寺住職の吉野孟彦という多彩な先生方の編集によって生まれた一書である。
 掲句は膨大な作品のなかの一句。りんごは、林檎の木から「もぐ」というのですね。木の枝にくっついている林檎はそう簡単には取れないから、「もぎとる」「もぐ」というのだろう。果物の中でも林檎一つは重たくて大きい。