二ヶ月の入院

二ヶ月の入院
                                 あらきみほ

 十月二十日、転んだ私は腰にバキッという音を聞いた。
 困ったと思ったが、犬と夫と東京勤務で夜遅くまで働く娘を置いて、主婦が入院して家を空けるなどできない。だが我慢した痛みもピークとなった九日目に、漸く病院へ行った。
 大腿骨頚部骨折だと判明し、医師に「よく我慢できましたね。このまま入院してください」と言われたが、粘って、一日だけ帰宅することを願った。痛い足を引きずりながら入院の準備をした。

 夫と娘に、家事と犬の世話の細かな指示書を認めてキッチンに大きく貼った。気休めだが箸休めの数品を作った。
 それから長くなるであろう入院生活の過ごし方を考え始めた。怪我は足なので手も頭も大丈夫な筈だ。この日々を無駄にしたくない。入院も俳句のチャンスと考えて歳時記とノートと『虚子俳話』、数冊の本もカバンに詰めた。
 病院行を延ばしたことで、まだやりたいことがある、歩けるようにする、明るく過ごそう、という心が決まった。

 ラッキーだったのは、腕のよい若い医師に出会えたことであった。覚悟した手術後の痛みはほとんどなく、ギブスもなく創口も小さく抜糸もない。ロイコスリップという名の七枚ほどの絆創膏は三週間ほどでほろほろと剥がれ、腿には細い一本の創痕が残った。医学の発展には目を見張る。

 全身麻酔から醒めると深い霧の手術台にいるようであったが、手術は無事に終っていた。想像した痛さはなく、ギブスも抜糸もなく、五センチほどの一筋が残った。
 大変さは右足に体重を載せることを禁止されたことだ。医師も看護師も、私が足を地につけていないか、つねに目を光らせている。数日前まで歩いていたから歩けそうだが、歩いてはいけない。赤子が立って歩くまで時間がかかるように、二本足で歩くまでの順を追う訓練が手術の翌日から始まった。
 運動嫌いの私が、初めて骨や筋肉のことを考えた。歩行は脳とも関係しているらしい。マッサージを受けながら、理学療法士さんが話してくれる体の構造の世界を学んだ。

 十二月、手術した病院から転院したリハビリ専門の病院は、筑波山の全貌を臨む関東平野の孤島のようであった。訓練時間も午前と午後で二倍となった。
 リハビリ室では松葉杖で歩く先々に体重計が置かれていて、怪我をした方の右足が踏む体重計への負荷は、体重の三分の一の数字以内でなくてはいけない。
 告白してしまうが、60キロの私の体重の三分の一は20キロ。松葉杖で歩きながら、体重計に来ると、右足を載せた体重計の目盛が20キロ以内を指さなくてはならない。
 その力の入れ方の塩梅が難しくて苦しんだ。クリアすると次は三分の二以内の数字となる。毎日うんざりするほど体重計と睨めっこの闘いを重ねたが、手術後六週間目に、やっと二足歩行の許可が出た。

 入院中に急ぎの仕事が入った。一冊の編集から仕上げまでを担当する仕事はやはり好きだから、私は最終段階の歩行訓練に励んだ。幾つかのテストに合格しなければ退院許可が下りない。担当療法士さんたちが褒めたり励ましてくれる中で張り切った。

 リハビリで歩く中庭では、一本の冬薔薇の木に咲いている三輪の花に毎日立ち寄った。オー・ヘンリーの短編『最後の一葉』のように日毎に萎れてゆくが崩れない。散ってしまう前に家に戻りたかった。
 凩が吹く日には木の葉が逃げ場を探すように荒々しく飛び回っている。松葉杖をついて中庭の歩行訓練は楽しかった。

 そして退院が決まったクリスマスの数日前、リハビリの苦闘を支えてくれた療法士の先生方に俳句を書いて渡すと、にこっとしてくれた。

  体重計よさらばメリークリスマス

 医療現場の優しさに触れた入院の日々は楽しかったけれど、私は、十年は戻ってきませんからと言って退院した。
                              (「花鳥来」巻頭言)