第二百六十八夜 菅野トモ子の「冴返る」の句

 今宵は、令和2年8月6日、私は、夫の故郷の長崎から戻ってきたばかり。五島列島まで足を伸ばすことは叶わなかったが、この旅では、彫刻家の舟越保武による日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」を見た。私たちは、この記念碑を「日本二十六聖人」と呼んでいるが、1597年(慶長元年)2月5日豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者の像である。
 磔にされた両足はだらんと下がっているのに、顔に苦しみの色はなく、ロザリオを握り、祈りを唱えている。26人の聖人がみな神の御心のままにという強い信心のお顔であった。

 令和元年、菅野トモ子さんは俳誌「未来図」で、作品「五島列島」30句が特選一席になり、作品を見せてくださった。小学校時代からの友人である。
 五島は、隠れキリシタンの島である。

 今回の旅の、稲佐山のホテルとグラバー邸の庭から、遠くに、多くの隠れキリシタンが暮らした五島列島を感じることができた。
 わが国にキリスト教が入ってくると、最初は喜んで迎えられ、ローマに少年使節を送ったりもしたが、豊臣秀吉の代になると、禁教令を発布した。
 それまで次々に入信した信徒たちは、やがて、隠れキリシタンとして生きる運命となった。

 トモ子さんの、「五島列島」から幾つか作品を紹介させていただく。

  たどたどしき仮名のオラショよ冴返る 「未来図」特選30句より

 信者たちは声を揃えて祈るのが、ポルトガル語のオラショなので、どうしても読み方がたどたどしくなってしまう。たどたどしさは、隠れキリシタンの祈りが、役人たちに知られないような言葉にしてあるからなのだろうか。
 「冴返る」が、禁教令が敷かれて後の、隠れるようにしてキリシタンとして生き抜いてきた厳しさを蘇らせてくれる。

  蘖や島のガイドは島育ち
  
 五島の住人は五島の大地が大好き。このガイドさんも島を出ることなく島育ちなのだろう。「蘖(ひこばえ)」という幹に出た芽吹きの葉のように初々しさを表している。句姿がきっぱりしてストレートに響いてきた。

  白梅や殉教像は天見据え
  
 「は」も「見据え」も語気が強いが、この地で隠れキリシタンとして生き抜き、あるいは、捕まって殉教した人たちというのは相当な心の強さがなくては信心は全うできないことである。
 季題「白梅」の、清新な白によって救われるように思った。

  野水仙岩に薄るる信徒の名
  
 野母半島の崖っぷちも野水仙に覆われているが、五島の海を見下ろす崖にも野水仙が咲き乱れていた。そのような場所の岩を墓石として名を記して、信徒であったことを印した。それが、「岩に薄るる信徒の名」である。
 誰もが、工夫に工夫を重ねて、信徒であり続け、協力しあって、信仰を隠しながら生き抜いていたのであった。

  春浅き白磁のマリア観音像 
   
 「マリア観音」を今回知ったが、島の隠れキリシタンたちは、聖母マリアを観音の形にして祈りの対象としていた。

  飴色のお神堂の床凍返る
  
 「お神堂」という言い方は初めてだが、隠れキリシタンたちの祈りの場なのだろう。
 10年ほど前、私が長崎へ義父の法事で代表して出席した時、夫の友人に西彼杵郡外海町の教会や隠れ里へ案内してもらったが、どの教会もお神堂も小さなものであった。

 一番に感じたのは、どんなに苦しい時代であっても、同じ志のなかで共に生き抜く仲間がいることの素晴らしさであった。

 菅野トモ子(すがの・ともこ)は、昭和20年(1945)長崎生まれ。東京大学看護学科卒。昭和59年、鍵和田秞子主宰の「未来図」に入り、師事する。平成27年、第1句集『花吹雪』刊行。