今の時代は、便利なベープマットやスプレー式の殺虫剤がある。蠅叩が家に常備しなくなって長い年月が過ぎたように思うが、蠅叩も売られている。薬品の匂いを好まない人もいるのだろう。
長い梅雨がようやく終わり、コロナは居座っているけれど、蠅も蚊も、出てきている。
今宵は、夏の稽古会の風物詩となった蠅叩の句を見てみよう。
蠅叩とり彼一打我一打
掲句は、昭和29年に千葉県鹿野山神野寺で行われた、夏の稽古会二日目、7月18日の句である。
大広間で各自が離ればなれに座って、句を思案中の情景であろうか。一匹の蠅が飛んでいる。蠅が側に来ると彼の人は蠅叩をふり上げたが打ち損じてしまった。逃げおおせた蠅は、今度は虚子のところへやってきた。
虚子も一打したが、おそらく蠅は逃げてしまった。蠅は側に来るとうるさいので蠅叩を使うが、誰も一匹の命を抹殺しようなどと本気ではなく、「蠅叩」はただ追い払うためのもののようである。
夏の稽古会の句作に没頭している人達のしづけさの中で、あちらで一打、こちらで一打という「蠅叩」の単調な音のある景は俳諧的可笑しさがある。
昭和29年10月号「玉藻」に鹿野山神野寺での「夏稽古会」の記事がある。
この年の夏の勉強会は7月13日から19日まで、千葉県鹿野山神野寺で行われた。13日から16日までは千葉組句会、土筆会、句謡会、草樹会の会があり、17、18、19日の三日間が「稽古会」といわれる若い人達の例年の夏の勉強会で、西の春菜会、東の新人会、笹子会のメンバーが一同に会した。昭和25年が第1回目で、この年は第5回目である。
春菜会の波多野爽波、安原葉、島田刀根夫、千原草之等で、笹子会の野村久雄、嶋田一歩、成瀬正とし等、新人会の湯浅桃邑、深見けん二等が出席した。
「ホトトギス」同人の山口笙堂が住職になってから、夏の勉強会は神野寺で行われることになったのであるが、その昭和29年から33年までの句会の記録が納められたのが、鹿野山神野寺発行『俳録 歯塚』である。
その『歯塚』には「句日記」にも掲載されていない当日の蠅叩の句があった。
汝も亦一つの仏蠅叩 7月18日
真新し即ち棕櫚の蠅叩 7月18日
蠅叩後に残して寺を去る 7月19日
蠅叩一つ残して寺を去る 7月19日
神野寺に着いた虚子は、一匹の蠅に付き纏われた。お寺には蠅叩が置いてなかったので、虚子の頼みに、お坊さんが裏山にある棕櫚の木で「蠅叩」を作ってくれた。その時の句があった。
叩きみるまさをき棕櫚の蠅叩 立子
手づくりの蠅叩あり避暑の坊 年尾
棕櫚の香の急こしらへの蠅叩 笙堂
「蠅叩」の句は合宿2日目の土筆会の句会で初お目見えで、その後の句会では毎回「蠅叩」の句が出てきている。
虚子は、梅雨明け間近の元気な蠅が仏性をもつ生き物であると心を寄せもするが、人間側からすれば不潔で鬱陶しく迷惑な蠅であり、その蠅を殺すための道具の蠅叩を手にしている虚子もまた人間の勝手さを身につけている、という諧謔である。
句会場が、殺生を禁じるお寺ということも「蠅叩」に存在感をもたせる。
「夏稽古会」後の「玉藻」の記事には、つぎのように出席者の感想もあった。
「虚子先生は終始にこにこされ楽しさうにして居られる。然し句に現はれてゐる先生の姿は恐ろしい程きびしいものであつた。僕は怖ろしかつた」(春菜会 岩田 黎)
「鹿野山の霧と黴の多い空気に圧倒されてしまつて、手も足も出ないやうな心持であつた。稽古会の厳しさ」(春菜会 波多野爽波)
「客観写生の句といふものは、無駄玉の多いものです。たまにいゝ句が生れる。そんなものですと虚子先生もいはれてゐます」と杞陽さんが云った。(新人会 深見けん二)
集った若い俳人達が神経の張りつめて師虚子に立ち向かっていく中で、虚子の悠々たる自在さが見えてくる。