第二百六十九夜 高浜虚子の「島若葉」の句

 8月、急に夏休みがとれた娘から、長崎旅行の案内役に誘われた。というのは、夫は島原出身で、私も大学卒業後に出身校と同じプロテスタント系の活水女学院の高等部の英語教師として3年間、長崎市に住んでいたからである。
 諫早市に住む夫の妹に電話をかけると、すんなりオッケーしてくれた。後から考えるとこのコロナ禍の最中によく迎えてくれたと感謝している。現在、茨城県に住んでいる私たちは、もう半年以上東京にも行っていないのに。
 成田発の飛行機が格安、長崎市の稲佐山の中腹にあるホテルも GoTo キャンペーン中だ。
 私は娘の誘いに乗った。
 
 1日目は、妹夫婦の車で、まず両親の墓参りから始まった。母の没後に作り変えた広々としたお墓は初めてであり、娘にとって、曾祖母の名も写真の凛としたお顔も初めてであった。
 
 そこから島原市へと向かった。まず、島原城内の展示の中に高浜虚子の軸に出合ったことは嬉しかった。


 
 今宵は、高浜虚子の「島若葉」の句を紹介してみよう。

  山さけてくだけ飛び散り島若葉 「七百五十句」昭和30年

 この作品は、昭和30年の5月14日から19日まで福岡、熊本、長崎の旅での作品である。小書には「三角港より有明海を渡る。島原泊り。」とある。三角港を出発すると天草諸島の湯島近くを通る。湯島は、史上最大のキリシタン一揆「天草・島原の乱」の作戦が練られたことから「談合島」とも呼ばれる。
 虚子の『句日記』によれば、「島若葉」の作品の前に、〈夏霞談合島と云ふがあり〉と詠んでいる。通りがかった談合島は5月の美しい若葉が燃えるように美しかったに違いない。

 上五中七の「山さけてくだけ飛び散り」は、最初、何のことだろうと思った。
 だが、今回の旅は1990年(平成2)に起こった普賢岳の大火砕流の跡をもう一度見ておきたいという気持ちもあって入場した、ジオと火山の体験ミュージアム「がまだすドーム」の映像で、平成の大噴火とともに1792年(寛政4)に起きた島原大変肥後大迷惑の噴火の様子も知ることができた。

 「山さけて」とは、虚子が遠い昔を思っての措辞であったのだ。
 虚子の作品は、200年前の寛政4年の大惨事に心を寄せたことでさらに、島若葉の勢いが出たのではないだろうか。