第二百九十三夜 飯田蛇笏の「秋のほたる」の句 

 飯田蛇笏は、高浜虚子が小説から俳句へ復帰し、雑詠欄をスタートさせた時に全国から力量のある作家たちがこぞって投句した一人で、渡辺水巴、原石鼎、前田普羅、村上鬼城らとともにホトトギスの第一期黄金時代を代表する作家である。
 虚子は、ホトトギスで巻頭作家となった32人の各人評を試みた。それが、ホトトギスに連載された「進むべき俳句の道」である。虚子の行き届いた筆力は、一人ひとりの性格、一句一句の丁寧な鑑賞、各自の異なる主観の特徴を挙げて、適確な進むべき道を作家に示した。
 連載の初めに、虚子は「諸君の進み来たった道は、諸君の進むべき道である」と述べ、俳句には幾多の道があることを示した。この連載は書籍となり、俳人の指針となっている。
 この虚子の指針は、何度読んでも、繰り返し同じことを書いても、俳人の一人として心に沁みてくる。
 
 『進むべき俳句の道』の中で飯田蛇笏の長所を、一つは「小説的」な鋭さの感性であり、一つは「甲斐の山居」の巧まぬ自然詠であるとした。

 今宵は、飯田蛇笏と芥川龍之介の交友のことと、龍之介が自死した際の追悼句を見てみよう。

  たましひのたとへば秋のほたるかな 『山廬集』

 蛇笏は、早稲田大学時代に虚子の鍛錬会の「俳諧散心」や、夏の集中鍛錬会の「日盛会」に参加して虚子から学んでいた。芥川龍之介は、小説を夏目漱石に師事していた関係もあるからであろう、ホトトギスに投句していた。
 龍之介は、ホトトギスで見た蛇笏の〈死病得て爪うつくしき火桶かな〉を手紙で激賞し、以後、蛇笏との交友が始まったという。
 
 掲句は「芥川龍之介氏の長逝を深悼す」と前書がある追悼句である。蛍は夏の6月の頃に飛ぶが、「秋の蛍」は、秋風が吹く頃の蛍である。弱々しく放つ光や季節を外れた侘しさが本意である。
 龍之介が自殺をしたのは、昭和2年7月24日の夏。だが蛇笏は追悼句として、夏の「蛍」ではなく、「秋の蛍」として詠んでいる。夏は蛍の光は黄色い電球の色であるが、秋の蛍は青味がかっていて弱々しさを感じるという。
 龍之介には遺書があった。有名な作家であるから新聞でも報道され、この弔句を詠む頃には死の原因は知っていたのであろう。
 一部分を、「遺書」から書き写してみる。(『芥川龍之介全集 第二十三巻』岩波書店)
 
  「僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。」「今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟気違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。」

 遺書からは、自殺をする理由ははっきりとは伝わってこなかった。
 この作品の凄さは、蛇笏が芥川龍之介の作品や生き方、更に自殺に至る心境を「たましひ」と感じ、「秋のほたる」を連想することで蛇笏の深い悲しみの句としたことである。