第二百九十四夜 島村 元の「秋草」の句

 私が、島村元を知ったのは、ホトトギスの本田あふひの甥であることを知った後である。あふひの夫の本田親済男爵の妹の長男が島村元であった。本田親済と同じく、虚子と能の仲間であり鎌倉能楽堂をともに建てた父島村久の影響で、元は俳句を虚子に学ぶようになった。最初の頃は「はじめ」と平仮名で投句していた。
 ホトトギス創刊百年記念に刊行した『ホトトギス巻頭句集』を見ると、大正5年10月号から大正10年の7月号までに10回の巻頭作家になっている。元が俳句を始めたのは、慶応大学を肺病で中退した20歳の大正2年。俳句をスタートして3年目に巻頭作家になったのだ。
 
 この頃の虚子は、「進むべき俳句の道」で主観句の素晴らしさを称賛していたが、投句してくる作品に地道な写生をせずに主観的な句が多くなってきたのを見て、再び、写生を説きはじめた。
 やがて島村元は、鋭い感性の写生句であると、虚子から認められるようになった。
 
 今宵は、没後に刊行された『島村元句集』からいくつか紹介しよう。
  
  秋草の思ひ思ひに淋しいぞ 『島村元句集』

 今日は9月1日。掲句を今宵の句と決めていた私は、取手に住んでいた頃に、先代の黒ラブのオペラの散歩によく行った利根川の土手と河川敷を、杖をついて一人で歩いた。
 河川敷には一面、背の高い芒原や芦原が広がってをり、穂を出したばかりの柔らかな色合いを見せている。土手の側面は、背の低い小草が続いている。何かで読んだが、こうした野原も庭園の庭師ではないけれど、「私たちが手をかけて育てているのです。」という言葉が浮かんできたほど、河川敷も土手も美しく手入れが行き届いていた。
 
 屈み込んで見ると、草たちは葉っぱだけでなく、細い茎を伸ばして、目立たない薄緑色や白い小花や穂をつけている。猫じゃらし、おおばこ、赤のまま、吾亦紅(われもこう)、赤詰草、菊芋の花などもある。
 いつの間にか、ずいぶんと遠くまで歩いてしまった。
 
 掲句では、秋草と一般に言う、尾花(ススキ)、桔梗、女郎花、藤袴、葛、萩、菊などを指しているのだろうか。
 私は、この作品からは目立たない草花を想像していた。振り返っては見ないかもしれない。わざわざ立ち止まって見る人もほとんどいないかもしれない。名を知らない草も多いが、近づいて屈んでみると、可憐な花が咲いていたりする。
 30歳で亡くなった、病気がちで臥せっていることも多かった島村元は、淋しげに揺れている秋草に「おまえも淋しいか、ぼくも淋しいぞ」と、心で呼びかけたのではないだろうか。
 製作年を調べることはできなかったが、晩年ではないかと思う。

 もう一句見てみよう。

  囀やピアノの上の薄埃 『島村元句集』大正8

 大正8年4月号の巻頭作品中の1句である。この時代に、部屋にはピアノが置かれ、誰も弾く人もなく、うっすらと埃がのっている。窓の外からは梅や桜の枝に鳥たちの囀りが聞こえている。
 「薄埃」が、この句のポイントで、ピアノの薄埃に気づかないのか、気づいても掃除をする気力がないのだろうか。囀りの明るさと、作者の心のアンバランスが気になった。

 島村元(しまむら・はじめ)は、明治26年(1893)-大正12年(1923)、は、外交官島村久の子。父の任地アメリカで生まれる。慶大文学部を肺疾患のため中退。大正2年から高浜虚子(きょし)に師事し、「ホトトギス」に参加する。ホトトギスの俳人・本田あふひの甥にあたる。鋭敏な感性による写生句で注目されたが、大正12年8月26日死去。31歳。死後に「島村元句集」が刊行。