第三百二十八夜 長谷川櫂の「春の水」の句

 長谷川櫂さんのお名前を知ったのは、夏石番矢編『俳句 百年の問』の中の「季語と切れはオリジナル」(原題『俳句の宇宙』の一部)の文章だったように思う。深見けん二師の下で、「季題」「写生」「切れ」などはかなり厳しく言われてきていたので、高浜虚子に全く触れていない夏石番矢さんの編著は、多様な考えを知ることができた書ではあったが、どこか納得できずにいた。
 
 ブログ「千夜千句」の2度目の登場は、鑑賞がうまく書けずにいた「春の水」の作品に、再度挑戦してみたいと思ったからである。当たり前のようにも見えるけれど、そうではない深さがあるのだろうと、宿題にしたままであったのが、次の作品である。
 
 今宵は、季題のことも考えながら、鑑賞を試みてみよう。

  春の水とは濡れてゐるみづのこと 『古志』
  
 「濡れてゐるみづのこと」の、「水が濡れている」をどのように鑑賞してよいのかずっと惑っていたのだ。
 このようにずばり言い切られた17文字は、読み手に「なぜ?」と思わせるが、これが「俳句の詩」なのかもしれない。
 
 長谷川櫂さんの師、平井照敏編『新歳時記』5巻本は文庫本なので、私は、便利で役立つ歳時記として身近に置いている。大歳時記には長々と書かれているが、季題の本意として、分かりやすくコンパクトに書かれているところが特長である。
 ちなみに、季題「春の水」の本意は、「冬枯のあとの春の水で、あたたかく活気がある。ゆたかな、春のうるおいがある。〈春の水山なき国を流れけり 武尊〉」としている。
 
 さて、長谷川櫂編著『現代俳句の鑑賞 101』の最終頁には、この作品の櫂さんの自註があった。詩人で英文学者の西脇順三郎の詩集「Ambarvalia(あむばるわりあ)」に「雨」という詩が紹介されていたので、転載させていただく。
 
 「南風は柔(やわらか)い女神をもたらした。/青銅をぬらした、噴水をぬらした、/ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、/潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。/静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、/この静かな柔い女神の行列が/私の舌をぬらした。」
 
 詩の中で、様々なモノを「ぬらし」てゆくのは南風の吹く頃に降る雨を、すなわち「春の水」と考えたのであろうか。「春の雨」ならば納得できるが、「春の水」となるとどうだろう。
 だが櫂さんはつづける。水は濡らしてゆくが、1つだけ濡れないものがあって、それが水であると。水は水を濡らさないと。そうすると、「では水って何?」と、再び理科の時間に学んだことを考えてしまう。
 
 私は、平井照敏の季題「春の水」の本意に納得したい。たとえば、春の小川も、水はもともと濡れているもので、その濡れている水が春の水で、暖かく、気持ちよさそうにさらさらと流れている。そこに春という季節の潤いが感じられるのではないだろうか。
 
  虚子の日の空気と遊びゐる子猫  『古志』
  
 掲句は、「虚子忌」を「虚子の日」として詠んでいるのであろう。高浜虚子が亡くなったのは、昭和34年4月8日である。桜の花も満開の頃で、晴れた日はうらうらと暖かいほどの陽気。
 「虚子の忌の空気」と、「虚子の日の空気」では全く雰囲気が違ってしまう。
 「虚子の日」と、季題のオリジナルな挑戦をしたことで、虚子句集「七百五十句」の中で詠まれている多くの「老の春」の作品が浮かび、楽しい老境を見せた虚子が、子猫と戯れているような情景がすっと見えるようになる。「虚子の忌」の「春」の季題と捉えて、それでいいのだと思った。