第三百八十一夜 高浜虚子の「北風」の句

 そろそろ12月、冷たい風が吹いていよいよ寒さと戦う季節が近づいてきた。
 風は、寒風、北風、からっ風、凩(こがらし)、もがり笛、虎落笛(もがりぶえ)、鎌鼬(かまいたち)、しまき、などがある。また地方特有の名もある。
 
 今宵は、いくつか冬の風の句を紹介してみよう。

  北風や石を敷きたるロシア町  高浜虚子 『五百句』
 (きたかぜや いしをしきたる ろしあまち)

 高浜虚子は、明治44年に初めて朝鮮旅行をした。その後の大正3年に、再び朝鮮を訪れたのは、大正13年のことで、この時の朝鮮は大正10年に日韓併合による日本の支配下にあった。2度目は鮮満旅行。釜山、平壌を経て満州ハルピン(長春)まで足を伸ばした。
 「ロシア町」は、満州のハルピンにある町である。大正11年(1917)まで続いた帝政ロシア(ロマノフ王朝)が崩壊する前の明治29年(1896)に清朝は帝政ロシアの支配下にあって、ロシア人がたくさん住んでいたという。
 大正13年(1919)頃のハルピンは、帝政ロシア崩壊後の元貴族たちが行く先を求めて着いた地の1つであり、ハルピンの「ロシア町」にはロシア人が住んでいたという。また日本人もかなり住んでいたという。

 戦後生まれの私は、戦前の歴史は授業で習ってはいたが、詳しくは知らない。
 私は、拙著『図説 俳句』を書いた時に調べたことを思い出した。明治28年、正岡子規は日清戦争の従軍記者として戦地に行ったことがあったが、現地に着く前に、戦争が終わっていたので朝鮮の港から帰国したのであった。
 
 虚子もまた、朝鮮や満州を見ておきたかったのであろうか。
 「石を敷きたるロシア町」は、寒い国ロシアと同じにハルピンの「ロシア町」もまた石を敷きつめた町づくりであったのだろう。虚子が訪れた時期は、没落貴族の町であったので、おそらく美しい町並みではなかったと思われる。
 さらに、掲句は大正13年の作であるから、日本の北海道よりも北に位置する満州ハルピンの11月30日は、さぞかし寒風吹きすさぶ時期であったと思う。
 虚子の目には、滅びゆく町の姿を感じたのであろう。
 ハルピンはその後、昭和7年(1932)に満州事変によって、日本が占領した満州国の首都となる。

  北風吹くや一つ目小僧蹤いてくる  角川春樹 『現代俳句歳時記』
 (きたふくや ひとつめこぞう ついてくる)

 「北風」は、「きたかぜ」「きた」の読み方がある。世界的な温暖化が始まる前は、12月になると東京でもからっ風が吹いていて、縮み上がる思いをしていたことを思い出す。
 角川春樹氏の作は、夜のことであろう。
 句意は、北風の吹きすさぶ中を歩いていると、後ろから一つ目小僧が蹤いてきているような気がする、という景になろうか。
 風の音は、誰かが鳴らしているようにも、足音のようにも感じる。幼い頃、お隣の男の子から脅かされる言葉の1つに「一つ目小僧が出てくるよ」など、妖怪の名が出てきた。井戸の傍とかトイレとか、怖くて一人で行けなくなったこともある。

  樹には樹の哀しみのありもがり笛  木下夕爾
 (きにはきに かなしみのあり もがりぶえ)

 「もがり笛」は「虎落笛」とも表記する。冬の烈風が電線や柵(さく)や竹垣に吹き当たってヒューヒューと笛のような音を発するのをいう。「虎落る(もがる)」は、逆らう、反抗する、我を張るなどの意があり、ものに当たったときの風が立てる音を笛のようだとしたのが「もがり笛」だ。
 句意は、強い寒風に吹きつけられ打たれている樹が音を立てている。もがり笛であるが、その風の音は、怒りでもなく、だだをこねているでもなく、木下夕爾には、どこか哀切を帯びた音に聞こえた。人には人の哀しみがあるように、樹には樹の哀しみがあるのだろう、だから悲しそうな声を立てているに違いない、と思えたのだろう。