第三百八十夜 高野素十の「柊(ひいらぎ)の花」の句

 数日続いた曇りがち雨がちの天候とは打って変わって、今日は小春日和となった。わが家の北側のふれあい道路の銀杏は完全に黄葉し、幹の内側から滑るように散っている。とっても素敵なのに市役所から清掃車がやってきては、車道の落葉を完璧に取り払ってしまう。数日待って、と言いたいほど。
 午前中は、この小春日の日射しにたまらず夫と黒ラブ犬を誘って、つくば市まで出かけた。目当ては、408号線の長い「アメリカフウ」の並木道の紅葉の具合を見たかったことと、つくば市の洞峰公園の沼と鴨とモミジとラクウショウの紅葉の具合を見たかったことであった。
 つくば市は少し北に位置しているので、守谷市よりずっと洞峰公園の紅葉は美しかった。だがアメリカフウは、随分と先端と枝が剪定されていた。きっと来年は美しい並木を見せてくれるに違いない。
 
 今宵は、高野素十の『初鴉』からの作品を紹介しよう。

  柊の花一本の香かな  『初鴉』
 (ひいらぎの はなひともとの かおりかな)
 
 柊の葉は、棘はあるがクリスマスリースなどにも使われるほど形がいい。近所のお屋敷の垣根に見たのが最初であった。初冬に咲くというが、私が気づいたのは、12月になって通りかかった時だ。かなり強くよい匂いがした。近づくと、柊の葉の間に真っ白な小花がついていて、よい匂いは柊の花であった。
 句意は、ただ一本の柊の花が、こんなにも辺りによい香を漂わせていましたよ、となろう。
 「一本」は「いっぽん」ではなく「ひともと」と読んでみると、なんともやさしい響きがする。「柊の花」である真っ白い小さな花からの香の、凛としたやさしさとも言えよう。【柊の花・冬】

 もう1句紹介するのは、昭和7年、素十がドイツへ単身で留学した時の作品である。

  火曜日は手紙のつく日冬籠
 (かようびは てがみのつくひ ふゆごもり)

 昭和3年に虚子は、「客観写生」「花鳥諷詠」を唱導した。昭和6年に水原秋桜子は、写生観の相違から、馬酔木に「自然の真と文芸上の真」を発表して、ホトトギスを離れている。
 「素十の行き方こそ厳密なる意味に於ける写生」と虚子に絶賛された素十は、ホトトギスで度々巻頭となって絶頂期にいたはずだが、昭和3年頃から医学研究専念のためと称して投句は欠詠がちであった。
 しかし欠詠がちの理由は、素十が競争にいるのを好まなかったとも言えるのではないだろうか。
 昭和6年、素十は同じくホトトギスの俳人の千葉富士子と結婚し、昭和7年には新潟医科大学法医学助教授となり、東京を離れた。
 そして、同7年11月から約2年間、新婚1年ほどの妻富士子を残して、ドイツに単身で留学している。

 句意は、火曜日には日本の妻から手紙が届くことになっている。このことは留学が決まってからの2人の約束であった。だが、今日は未だである。それを楽しみにして独りぼっちの冬の生活の1人籠もって過ごしている、となろうか。
 
 星野立子主宰の「玉藻」に、ドイツ留学中の手紙に関する素十の文章があるので、引用させて頂く。
 「手紙のあるときは小生は機嫌がいい。『ホトトギス』『玉藻』『欅』朝日新聞、大学新聞、(略)富士子の手紙なし。封書には富士子の手蹟故別に大した変わったことはないと思うが、甚だ不愉快。人間いつも爽快でなければいかん。甚だ不愉快。」とある。
 
 このような文章を、俳誌に書いておくのだから痛快である。〈雪片のつれ立ちてくる深空かな〉もドイツ留学中の作である。【冬籠・冬】