第四百三十九夜 鈴木貞雄の「怒り」の句ほか3句

  一日一怒!
  この言葉を、私は同時代人のための「時代訓」にしたいと思う。もっと気軽に怒ろうではありませんか。
  親父の尻を蹴っ飛ばし、
  お役所仕事に噛みつき、
  矛盾と不合理を殴り飛ばし、にっこり笑って、
  to love again !          ――街に戦場あり――
  
 上に紹介した言葉は、寺山修司著の『両手いっぱいの言葉』の中の413のアフォリズムの1つである。
 わが夫はよく怒る。何か言ったかしらと思う間もなく怒りはじめているから、私も負けないように怒りん坊かもしれないと思うことがある。故なく怒られるのは、女だって癪にさわる。
 
 「怒り」を詠み込んだ俳句ってあるだろうか、と探していたら、今回はネットで「怒り/忿りを使用した俳句」一覧に出合った。作品のいくつか引用させていただいた。
 
 今宵は、「怒り」を詠み込んだ俳句を紹介してみよう。

  怒り抑へがたししづかに蟬鳴きだす  鈴木貞雄
 (いかりおさえがたし しずかにせみなきだす) 

 句意は、抑えがたい怒りの中にいるとき、しずかに蟬が鳴き出しましたよ、となろうか。
 
 心の底から怒っているときというのは、いきなり怒鳴りだすのではなく、怒りが本当に怖いのは逆に物しずかに怒り出すものであり、ちょうど、蟬の鳴き出す瞬間と同じであるという。【蟬・夏】

  女にも怒りはじめの臍ありぬ  小檜山繁子 
 (おんなにも いかりはじめの へそありぬ)

 「臍」とは、物の中央にあたる重要な部分である。俳句で言えば、1句の要である。女の怒りは、ヒステリーのように突然に怒り出すばかりではない。ちゃんとした怒るべき理由があって怒ることがある。
 「怒りはじめの臍」というと、また少し違ってくる。ちょっとしたことにも「臍を曲げる」と言われる女だから、この臍は、何かの拍子に曲がってしまった臍で、そこから、女の怒りは爆発するとでもいうのだろうか。
 
 句意は、女にも、怒りの始めの臍、つまり理由はちゃんとあって怒っているのですよ、となろうか。【無季】

  鶏頭のやうな手を上げ死んでゆけり 富澤赤黄男
 (けいとうのよやうな てをあげ) しんでゆけり)  

 句意は、兵士が血にまみれた鶏頭のような手を上に挙げたまま死んでいきましたよ、となろう。

 富澤赤黄男(とみざわ・かきお)は、戦前の新興俳句の作家。戦場を詠んだものであろう。「鶏頭」は、茎の上にニワトリの鶏冠のような赤い花穂を立ている花。
 「鶏頭のやうな手を上げ」とは、死んでゆく瞬間まで兵士は自分の死を納得していないという動作なのではないか。兵士たちが納得できる理由で戦場に来たわけではない。戦では駒の1つに過ぎない。命を失うには大義名文がなくては、わが生命を無駄死にさせたくはない、「鶏頭のような手」に怒りをに込めて詠んでいる作品。【鶏頭・秋】

  鳥影や火焚きて怒りなぐさめし  寺山修司
 (とりかげや ひたきて いかりなぐさめし) 

 焚火や暖炉の火、正月のどんど焼き、花火もそうであろうが、人は、燃えている火を眺めるときが何故だか心が落ち着く。
 
 句意は、焚火をずっと眺めていると次第次第に怒りが収まり宥められてくる。そんなとき、鳥が通りすぎてゆく影がありましたよ、となろうか。
 
 NHKのBSプレミアムで「魂のタキ火」という番組がある。夜の11時15分からなので、再放送で時折見ている。美しい炎に照らし出されて2人か3人の素顔のトークが新鮮に感じるのは、焚火の炎の力であろう。心が落ち着き、素直になるから思わず本音を言わされてしまう力だ。【焚火・冬】