第四百三十八夜 大野林火の「寒林の一樹」の句

 筑波山の麓にある筑波実験植物園(つくば植物園)に出かけた。9時の開園に入場したが、2人の園丁に出合っただけで誰ともすれ違うことがなかった。
 入口の右側には梅の木があり、紅梅と白梅がちらほら咲き始めている。紅梅の蕾のふっくらとした濃い紅色は、すでに開いた花のやわらかな桃色を、曇天を背景に引き立てていた。枝の茶色や空の色をバックにした数輪の楚々とした冬の梅がいい。
 臘梅(ろうばい)は、独特のロウをまぶした黃の花をつけている。金縷梅(まんさく)は、「まず咲く」から付いた名であるのに、大きな枯葉を寒さよけのようにして蕾を膨らませていた。
 
 「冬木の芽」という場合、花芽(かが)と葉芽(ようが、又は、はめ)の両方がごちゃまぜになって使っていたように思う。例えば、辛夷の銀色の芽は春になると花の咲く花芽(蕾)だが、12月にはすでに枝に付いているので、冬木の芽と思っていたが辛夷の蕾である。
 枝々に膨らみだした芽を見れば、違いが判るかしら、と、つくば植物園の樹々の枝を眺めた。
 季語は、よく知って使わなくてはならないが、季語になっていないものもあるので難しい。
 
 入口からつづく大木のラクウショウとメタセコイアの並木は枯木立となっていて、園内をはるか見渡せる。

 今宵は、「寒林」の句を紹介しよう。

  寒林の一樹といへど重ならず  大野林火  『新歳時記』平井照敏
 (かんりんの いちじゅといえど かさならず)

 句意は、冬にすっかり葉を落とした、枯木のように見える木立を寒林というが、その中の1本の木とて重なり合っているものはありませんよ、となろうか。
 
 遠くから見れば、幹も枝も重なっているようであるが、近づいて見ると、どんな小枝でも1つとして重なってはいない。

  寒林や手をうてば手のさみしき音  柴田白葉女 『新歳時記』平井照敏
 (かんりんや てをうてばての さみしきおと)

 句意は、寒林となった雑木林の中で、試しに手を打ってみた。さみしい音が木々を縫って、木霊(こだま)のように響いてきましたよ、となろうか。
 
 「さみしき音」は、寒林という、風さえもぶつからずにすり抜けていくような、寒々しさの音であろう。手を打っても手応えのない頼りない音にしか聞こえないのかもしれない。

  枯木立月光棒のごときかな  川端茅舎  『ホトトギス 新歳時記』稲畑汀子編
 (かれこだち げっこう ぼうのごときかな)

 「枯木立」は「寒林」と同じように、葉の落ち尽くした枯木の群れているのをいう。
 
 句意は、枯木立の中に見る月光は、いつ見ても、どこからみても一直線で、ちょうど棒のようにみえましたよ、となろうか。
 
 月の位置は高さも角度も毎晩違っているが、月光が枯木立を抜けるとき、月が真上にあれば月光は枯木立をまっすぐに落ちてくるし、月の出であれば月光は木立を横から一直線となってとどく。その様子が「棒のごときかな」という表現となった。

 わが家の近くの街道は、見事な銀杏並木がつづいていて、毎晩、犬の散歩のたびに見上げている。銀杏落葉になり、1月に入って完全な枯木となった。ところがある日、枯木の枝々の隙間がモワモワっとしてきていることに気づいた。よく見ると、もう冬木の芽が出始めているのだった。
 自然は刻々と蠢いており成長しているのだと思った。冬至が過ぎて、もう1ヶ月になる。