第四十六夜 中村草田男の「秋の航」の句

  秋の航一大紺円盤の中  中村草田男
 
 鑑賞してみよう。
 
 秋空の青を映す見渡す限りの海原は、空の青より一段と濃い紺色。海原には草田男の乗った客船だけが航行していて、行けども行けども海原という三百六十度ぐるりの円盤の中にいる。空も青い円盤である。濃紺鮮やかな美の世界であると同時に、はるか宇宙から俯瞰した景は、独特な視点の大きな世界である。それにしても「一大紺円盤の中」の句またがりの破調は、私たちも一緒に三百六十度をゆったり眺める気持ちにさせてくれる。
 揚句は、昭和八年八月、虚子一行の北海道旅行に同道したとき、初めての青函連絡船に強い印象を受けての作で、翌九年の「ホトトギス」十二月号で巻頭になった。

 次の短い文が、草田男の第一句集『長子』への序である。

「印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは
  秋の航一大紺円盤の中  草田男
 という句でありました              虚子」
 
 虚子の序文は、あまりの簡潔さゆえに真意を計りかねたことでも有名であるが草田男は、「虚子先生に暗示豊かな一文をいただき、篤き師恩に浴するの幸福を今更身に沁みて感ずる」と跋で感謝した。
 虚子は草田男に、ホトトギスに収まりきれない詩人の魂を見てとってをり、草田男もまた、見ていてくれる虚子の心を感じとっていた。
 
 この第一句集の『長子』その跋で草田男は、「所謂『昨日の伝統』に眠れる者でもなければ、所謂『今日の新興』に乱るゝ者でもない」と述べ、さらに草田男自身の「芸と文学の同時達成」という俳句理念を述べて、自らの俳句的立場を明確にしている。すでにその当時、草田男はホトトギス以外でも、俳句雑誌「俳句研究」などで人気作家の一人となっていた。

 昭和十四年八月号掲載の「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」を契機として、草田男は、楸邨、波郷らとともに人間探求派といわれるようになった。また、難解派とも呼ばれるようになった。難解といわれる理由の一つは草田男俳句の特長である、内から脈動する生命のリズム、内在律からの破調である。俳句の「芸」と、時代の中の生活者としての「文学」を融合する戦いが難解さを生んだ。
 虚子は、草田男俳句を「生活や心の苦悩を俳句にすることも俳句の近代化というのであろう」とし、俳句の道は一つではなく百川もあると述べた。
 
 草田男は、難解な表現の破調句でも、虚子を信じて、全身で俳句をぶつけた。
「其の句を作った時の自分の感じに一種の手応えがあれば、即ち真の実感から生まれた句であったらきっと先生に判って頂ける。」

 中村草田男(なかむらくさたお)は、東大独文科に入学して西欧の文学に親しみ、ニーチェ、ヘルダーリン、チェーホフ、ドストエフスキー等の作家たちに興味を持ち、独特な感性と強烈な思想に影響をうけた。この青春時代の永い思想彷徨の末にしばしば神経衰弱にかかった草田男は、行き詰まった精神生活の打開の道として俳句を選んだ。そして、一旦休学した後国文科に転科した。草田男は叔母の紹介で虚子に会い、「東大俳句会」「ホトトギス」で虚子に師事はじめたのは二十九歳の東大生で、昭和四年のことである。昭和二十一年にホトトギスを離れて「萬緑」を創刊主宰する。
 草田男はホトトギスを離れた後も、正月二日には必ず、年賀の挨拶に虚子を訪れていた。

 もう一句、紹介しよう。

  曼珠沙華落暉も蘂を拡げけり  昭和九年

 曼珠沙華を詠んだものと思っていたが、そうではなかった。落日の八方十方に広がる光芒を曼珠沙華の蘂に喩えた句であった。このように詠まれたことで、仏画のような真っ赤な入り日の中で曼珠沙華の色彩が、ふたたび輝きはじめるのである。

 草田男の作品は、必ず「客観写生」の技による具象化された「もの」が核として在り、その具象化された「もの」が詩根である。
 内面の思索、西欧的知識、メルヘンを秘めた草田男俳句が抽象的でないのは、具体的な「もの」があるからである。その結果、俳句性の一つである「景が見える」作品となり、読者の胸に響くのである。これこそが、草田男俳句の両輪の一つ・虚子直伝の「客観写生」による芸の力である。