第四十五夜 山口誓子の「蟷螂」の句

  かりかりと蟷螂蜂の貌を食む  昭和七年

 鑑賞をしてみよう。
 
 一匹の蟷螂が捕まえた蜂を食べている。かりかりという音を立てているかのように、まだ生きている蜂の貌からむしゃむしゃ食べはじめた。目を背けたい光景だが、誓子は描写した。非情といわれるほどの眼で対象に迫ってゆく。「かりかり」の擬音は、蟷螂が蜂の顔を噛む音であり、食べられる蜂の悲鳴とも聞こえるほど悲痛な音でもある。小動物の弱肉強食の凄惨さを鋭く捉えた句である。
 
 これほどの客観写生の眼を持つ誓子であるが、誓子は一つの余韻を、穏やかに味わうことでは満足しなかった。誓子が詠みたかったのは、食む蟷螂と食われる蜂に見られる二つの緊張感であった。この緊張感こそ「二物衝撃」である。

 近代俳句の手法の二物衝撃は掲句の誓子作品を始めとするとも言われ、芭蕉や正岡子規の「取り合せ」配合論の延長上のものでもある。そして、かつて新傾向運動で試みた碧梧桐の取り合せ作品に見られなかったのは、この二物衝撃の緊張感である。
 誓子の二物衝撃とは、「即物具象の方法」と「モンタージュ法(映画からヒントを得た写真構成)」を用いたもので、後に、創刊主宰した「天狼」の合言葉「生命の根源を掴む俳句」を得る手法となった。
 
 誓子は次のように述べている。
「現代に生を享けたために私はそういうメカニズムを強調するのである。」(『誓子俳話』)
 虚子は、昭和二年の「ホトトギス雑詠句評会」の中で、省略法の大切さに触れたあと、次のように述べている。
「物を描写するに当たって、省略といふやうな消極的な方法をとらないで、突き進んで行って十七文字の天地に為し得る限りの精細の描写を試みるという事は、近頃の俳句に至って始めてなされたことである。」

 山口誓子(やまぐちせいし)は、明治三十四年(一九〇一)京都市の生まれ。母が自殺したため外祖父に育てられ、外祖父の仕事の関係で樺太(サハリン)へ渡り、小学校、中学校と過ごした。大正九年よりホトトギスに投句をはじめる。大正十一年には東大法学部に入学し、「東大俳句会」に入会し、東大在学中の東京在住の四年間、高浜虚子に直接指導を受けることになる。
 
 誓子は『凍港』の跋で、昭和五年以降を、次のように述べた。
「多くの場合連作の形式によって、新しい{現実}、新しい{視覚}に於いて把握し、新しい{俳句の世界}を構成せんとしつつある時期である。」
 素材をいろいろな角度から作句して数句を連作として組み立て、ダンスホール、キャンプ、スケートリンク、メーデー、法廷の幻想などの近代的な素材を俳句にとりこんだのは誓子の功績である。
 虚子は『凍港』の序で、誓子が新しい俳句を開拓してゆく過程を、次のように述べた。
「従来の俳句の思ひも及ばなかつたところに指をそめ、所謂辺境に鉾を進むる概がある。」
「又俳句は如何に辺塞に武を行つても、尚且つ花鳥諷詠詩であるといふことも諒解するであろう」と結んだ。
 誓子はこのようにして、ホトトギスの虚子の許で客観写生と花鳥諷詠を学びつつ、ホトトギスを離れた秋桜子たちと同じ新興俳句の目線で、俳句の挑戦をつづけていった。
 
 昭和十年、いよいよ俳句での立場を明白にしなければならなくなった誓子はホトトギスを去り、「馬酔木」五月号より参加する。
 虚子が「今の誓子君は漫りに俳句界を去る如き軽挙は敢てしないといふ慎重さを見せてゐる」と、昭和七年刊行の『凍港』の序で指摘したように、慎重であった誓子だが、昭和十年、秋桜子に遅れること三年半、ホトトギスを辞した誓子は新興俳句陣営へ参加したのである。
 
 虚子の掌中にあっても、誓子は現代俳句への挑戦はできる、という思いはあったかもしれない。
 しかし虚子の目指す俳句は、「花鳥諷詠」と「客観写生」の二つは互いに欠くべからざる両輪であるが、四Sでは高野素十の作品に見るように、写生の技を持って季題の本質へ迫るというものである。

 もう一句、昭和二十年の作品を紹介しよう。
 
   炎天の遠き帆やわがこころの帆  『遠星』

 新しい俳句を目指して、試行錯誤したホトトギス時代や、その後の馬酔木での連作による新興俳句運動こそ、炎天に掲げた遠き帆であり、心に抱く帆はまさに、誓子が酷烈なる精神で獲得しようとしてきた高き志のシンボルだったのではないだろうか。