第六百八十四夜 能村研三の「秋雲」の句

    まっすぐに行く         種田山頭火
   
 「あなたは禅宗のお坊さんですか。・・私の道はどこにありましょうか」
 「道は前にあります。まっすぐにお行きなさい」
 私は或は路上問答を試みられたのかもしれないが、とにかく彼は私の即答に満足したらしく、彼の前にある道をまっすぐに行った。
 道は前にある、まっすぐに行こう。――これは私の信念である。この語句を裏書するだけの力量を私は具有していないけれど、この語句が暗示する意義は今でも間違っていないと信じている。(後略)     『山頭火随筆集』講談社刊
   
 今宵は、「秋の雲」「秋の空」の作品を紹介してみよう。

■1句目:秋雲

  秋雲といきなり出合ふ坂の町  能村研三 『現代歳時記』成星出版
 (しゅううんと いきなりであう さかのまち) のむら・けんぞう

 句意はこうであろう。かなりの急な坂道を上ってゆく作者が、そろそろ坂道のてっぺん近くまで来たと思いながら歩いていると、突如、坂道のてっぺんに覗いている巨大な秋の雲に出合ったのですよ、となろうか。

 この「秋雲」は、ふりがなは付いていなかったので、本当は、作者にお訊きしたいところであるが、私は、「あきぐも」ではなく「しゅううん」という強い語調で口づさむ方が相応しいのではと思った。
 
 急な坂道や山道のてっぺん辺りで、坂の向こう側のものに「いきなり出合ふ」ことは、経験したことがある。1人でないことが多かったので、心臓が止まるほど驚くことはなかったが、車で走っている場合はスピードがあるので、まさに突然に反対車線ではあるが車と出合うとヒヤリとするほど怖い。
 この作品では、作者が出合ったのは「秋雲」であるところが、爽やかで清々しい。

■2句目:秋の雲

  秋の雲しろじろとして夜に入りし  飯田蛇笏 『山廬集』
 (あきのくも しろじろとして よにいりし) いいだ・だこつ

 句意はこうであろうか。昼に眺めていた白い秋の雲が、夜になっても白白としたままで夜空に浮かんでいましたよ、となろうか。
 
 夜空の雲が、昼間のように白く見えることは不思議なことだとずっと思っていた。今日は、村松照雄著『天気の100の不思議』(東京書籍刊)で調べてみた。雲に含まれる水分が、昼は太陽の光を受けて白く輝き、夜は地上の明かりを受けて白く輝いて見えるのだそうである。
 
 そうなんだ。私の住んでいる守谷市は千葉県に隣接している。たとえば少し北上すると筑波山があり、夜の筑波山山頂からは東京の明かりが皓々と輝いている。地上が真暗闇になることは、日本全土が停電にならないかぎり有り得ない。つまり雲は、夜でも白く見えるということになる。
 
■3句目:秋空

  秋空を二つに断てり椎大樹  高浜虚子 『五百句』明治39年10月15日
 (あきぞらを ふたつにたてり しいたいじゅ) たかはま・きょし

 句意はこうであろう。澄んだ秋空の中で常緑高木である椎大樹が鬱然と天空へと伸びている。椎大樹を眺める虚子には、大空を2つに断ち切られた構図に見えた。
 
 椎大樹の高さと、左右に負2つに分断された秋空だけが、読み手の私たちの視界にあるばかりである。季題「秋空」のもつ澄明な奥深い色と冷やかな空気感がはっしと伝わってくる。
 
 この作品は、カルチャーセンターで学び始めた最初の虚子の例句であった。明瞭な作品だからであろうか。

■4句目

  秋空がまだ濡れてをる水彩画  鈴木鷹夫 『現代歳時記』成星出版
 (あきぞらが まだぬれてをる すいさいが) すずき・たかお
 
 この作品にある、1点のユーモアに惹かれた。
 水彩画では、空を描くのは1番最後だ。教会も噴水も描いたし、友だちの石蹴り遊びも描き終えた。いよいよ秋空を描く。青い絵の具に水をたっぷり浸した筆で、画用紙の秋空の広い部分を埋めた。まだこんなに濡れているから、仕舞うこともできやしない。