第六百八十五夜 草間時彦の「百日草」の句

 牛久沼の高台にある小川芋銭の雲魚亭に行ったのはコロナ禍の始まる前であったので、もう2年はとうに過ぎている。この時期に行きたかったのは芋銭居の入口にある竹林と沼の崖を覆っている竹林の、「竹の春」を見たかったからである。
 現在、名称は「小川芋銭記念館雲魚亭」となり、1軒隣の住井すゑの旧居と抱樸舎が「住井すゑ文学館」となり、画家として文学者としての全貌がわかるように展示されている。小川芋銭の雲魚亭はこれまで何度も見ているが、住井すゑ文学館は今年9月から会館の予定であったが、現在コロナ禍のために、今も会館予定のままであった。
 
 コロナ禍も落ち着きはじめている気配がしているので、近いうちに又訪れたいと思っている。庭には、色とりどりの百日草が咲いていた。
 
 百日草の花も調べてみると複雑である。1花の周りの、花弁と思っていたのは舌状花花弁と言い、その基部に雌蘂が付いていて、中央に管状花が見分けられる、というキク科の観賞用の草花である。夏から秋まで百日もの長い間咲きつづける1年草である。

 今宵は、夏の季語ではあるが、小川芋銭居で昼に見た「百日草」の作品をみてみよう。

■1句目

  心濁りて何もせぬ日の百日草  草間時彦 『新歳時記』平井照敏編
 (こころにごりて なにもせぬひの ひゃくにちそう) くさま・ときひこ

 句意はこうであろうか。邪念で心が鬱々として何も手につかない夏の日、百日草を眺めていましたよ、となろうか。
 
 百日草は、夏から秋まで3ヶ月以上も咲きつづけている。百日草は長い日々を毎日、鬱々としているわけでもなく、悶々としているわけでもなく、美しく咲きつづけているのだ。「心濁りて何もせぬ日」という心で眺める作者の草間時彦には、百日草がどのように映ったのであろうか。

■2句目

  これよりの百日草の花一つ  松本たかし 『松本たかし句集』
 (これよりの ひゃくにちそうの はなひとつ) まつもと・たかし

 句意はこうであろう。百日草の花が咲いた。これから百日もの間、咲き代わり咲き代わりして、次々に美しい花を見せてくれるのですよ、となろうか。

 1株の百日草に咲く花は、枯れてくる花は摘みながらであるが、百日もの間、次々と咲くので「百日草の花一つ」は絶えることなく美しく咲くという。「これよりの」「百日草の」「花一つ」という五七五のどれもが作品、必要不可欠の最小の言葉で詠まれている。
 
 松本たかしは、幼少からの能の厳しい稽古と型を学ぶための「習練」の日々と、病気以降の療養の有り余る時間を自然の中で過ごした日々とによって、たかしは期せずして、虚子の導く「客観写生」の鍛錬の道へ自然に入ってゆけた。客観写生の道とは、瞬時に言葉を掴むデッサン力を磨くことである。
 そしてたかしは、小さな詩型の俳句を短刀に喩えて、「間髪」とは「俳句の表情は一瞬間で決まる」ものであると言った。

■3句目

  蝶歩く百日草の花の上  高野素十 『初鴉』
 (ちょうあるく ひゃくにちそうの はなのうえ) たかの・すじゅう
  
 夏の日、蝶が百日草の上を歩きながら蜜を吸いに飛んできていましたよ、となろうか。素十は、たまたまこの光景に出合い、夢中になって描写をはじめた。そのありのままの描写が蝶と百日草のありのままの姿を見事に写し取ったのであった。
 
 水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の4人は、虚子の弟子の「四S」の作家と呼ばれている。その中で、虚子の客観写生の教えを忠実に受け継いだのが素十であった。素十の弟子で「蕗」を創刊主宰したの倉田紘文からは「純客観写生」だと言われた。

 今日小川芋銭記念館の庭園で見た百日草は、丁度、美しいアゲハチョウがやって来て蜜を吸っていた。