水戸の偕楽園の萩まつりは、今年も昨年につづいて中止されるという。守谷に古い友人が集って始まった「円穹俳句会」は殆ど茨城県探訪をして8年間が過ぎた。その1つが偕楽園の萩まつりであった。20人ほどのメンバーは5台の車に分乗し、運転を交替し、お喋りも皆としたいので乗車メンバーも入れ替わりながら、水戸偕楽園へ行った。
ゆったりした間隔で植えられた萩の、ぞんぶんに伸ばした枝枝の小花の1つ1つが美しかったこと、歩きながら枝先にぶつかる萩の弾力のしなやかな感触を思い出した。
今宵は、高浜虚子の「萩」の句を紹介してみよう。
■椿子人形
椿子も萩も芒も焼き捨てよ 高浜虚子 『七百五十句』
(つばきこも はぎもすすきも、やきすてよ) 【萩・秋】
昭和29年作。虚子79歳。詞書「十月七日 椿子句会もこれで終りにすると、香葎(こうせん)の手紙にありければ。」
椿子というのは女人形に付けた名前である。
昭和23年2月11日、虚子が疎開先の小諸から鎌倉へ戻って間もない春先、虚子が人形問屋「吉徳」の十代目・山田徳兵衛に「土偶」という俳号を付けてあげたお礼にと、徳兵衛から、「お側に置いて頂きたい」と手紙を添えた一体の女人形が贈られてきた。身長40センチほどのおかっぱさんの七八ツと思われる少女の振袖姿の人形であった。
虚子が書斎の俳小屋から眺める庭は藪椿が咲いていた。丁度、好きな赤い椿に思いを馳せていた虚子は、赤い友禅を着た人形に思いを重ね「椿子」と名づけて、傍らの本箱の上に置いた。
椿艶これに対して老ひとり 2月10日 『六百五十句』
小説に書く女より椿艶 2月11日
造化又赤を好むや赤椿 々
椿子と名附けて側に侍らしめ 々
鎌倉は暖かく椿は満開で、虚子はひとり俳小屋から、赤い藪椿が風や鵯に揺れたりするのを眺め、さまざまに空想を楽しんでは俳句を詠み、これらを『六百五十句』に収めた。
さらに、椿子の句を発表し、文章にして「ホトトギス」や「中央公論」「暮しの手帖」に発表をしたり、小唄にしたりと、虚子は暫く椿子人形に興味を抱いていた。
その椿子に「椿の艶」が加わるのは、但馬和田山の盲目の俳人・安積素顔(あずみ・そがん)の長女叡子さんの存在である。数年前、但馬で虚子が会った叡子さんは、盲目の父に黙々と肩を貸していた。
健気でどこか淋しげな少女であった叡子さんは、大学卒業後に鎌倉の虚子庵を訪れた折には、その仕草に美しさを感じさせる大人になっていた。
この女この時艶に屠蘇の酒 『六百五十句』昭和25年
美人手を貸せばひかれて老涼し 『七百五十句』昭和27年
これらの句は叡子さんのことである。叡子さんは父素顔の死後、中断していた俳句を再び作りはじめていた。
昭和26年、この安積叡子さんに虚子は椿子人形を贈った。
椿子人形は虚子のところに来て3年以上経っており、虚子には人形が生気がなく埃っぽく見えた。
虚子は何故、この人形を叡子さんに贈ったのだろうか。はっきりと言っていないが、虚子は、もはや椿子人形に心がときめくことがなくなったのであろう。本当は、椿子だけでなく庭に咲く赤い藪椿にもときめかなくなっていたのだ。
叡子さんに椿子人形を託すことによって「椿子」に再び生気を持たせ、椿子を通して若く美しい叡子さんと関わりを持つことで、もしかしたら、虚子は自身の心に「華やぎ」を取り戻そうとしたのではないだろうか。
小説『虹』の主人公となった森田愛子と同じように。
それは恋に似てはいるけれど、恋ではない。これが虚子にある「艶」なのであろうか。
魂の触れ合いを生身の「恋」とはせずに、精神的に昇華したところに「艶」は生まれる。至芸の中に艶はあるように、訓練され洗練された無意識下に自在という形で垣間見えるものが「艶」なのではないだろうか。
何故、愛子と叡子さんの場合には「艶」になるのかというと、愛子も叡子さんも虚子に対して無心な気持があるだけであるからにちがいない。虚子も無心な気持で応えているが、虚子の無意識下のかすかな心の揺らぎが、『虹』や『椿子物語』の淡々とした写生文に描かれる中で「艶」となるのである。
叡子さんは、椿子人形を贈られて、椿子歓迎句会を催し、その後も椿子句会を続けていた。やがて、叡子さんは結婚することになった。同じホトトギスの有力新人千原草之(ちはら・そうし)氏である。
だが虚子からすれば、かすかな揺らぎを秘めた椿子人形であった。叡子さんに〈椿子も萩も芒も焼き捨てよ〉の句を送った。
掲句は、当日の『句日記』5句の1句である。
追慕する人々も皆鬢の霜
思ひ寄る慈童の菊といふことを
今もあり秋の扇のその事も
たぐひなき菊の契りとことほぎぬ 草之・叡子の結婚祝句。
椿子も萩も芒も焼き捨てよ
「結婚を機にそのような人形は焼き捨てて、百パーセント千原叡子になって下さい」というのも虚子の本心である。4句目は、しかし、萩も芒も妬心の化身のように揺らぐものであり、「椿子を、めらめらと焼けやすい萩や芒と共に、いっそ焼いて無くしてしまっておくれ」という激しい措辞は、無意識を装った老虚子の妬心ともとれるが、これも「艶」の内であろう。
千原叡子さんは「椿子」を捨てたりはしないで、大切に保存していた。この椿子人形は現在、芦屋の虚子文学記念館に納められ展示されているという。
「花鳥来」で深見けん二先生の下で『七百五十句』の虚子研究輪講をした時に、私が担当した句の1つである。