第九百八十三夜 高浜虚子の「秋の風」の句

 今年の9月は、2つの「国葬」があった。1つは9月19日、イギリスのウェストミンスター寺院で行われた、エリザベス女王の国葬。もう1つは、9月27日午後2時に武道館で行われた日本の元首相であった安倍晋三の国葬である。国葬を決めたのは現総理大臣の岸田文雄であるが、ニュースでは国葬ということに賛否両論があった。

 武道館の外には大勢の人が詰めかけていたが、武道館での参列者は事前に決められた4183人であった。
 当日は晴天で、参列は叶わなかったが、せめて、近くで弔意を表したいという1万2千人もの人たちが沿道に集まって見送っていた。

 今宵は、「秋の風」の作品を紹介してみよう。


  一筋の大きな道や秋の風  高浜虚子 『七百五十句』昭和28年作
 (ひとすじの おおきなみちや あきのかぜ) たかはま・きょし

 宝生流能役者野口兼資(のぐち・かねつぐ)は10月16日に亡くなった。そのとき、虚子は野口兼資の訃報に接して、かつて観た兼資の「江口」「羽衣」などの見事な舞台が眼前に甦るようであったという。
 「一筋の大きな道」とは、無論、師から承(う)け伝える師承であり、伝統の芸術である「能楽」のことである。先師から型を受継ぎ、修錬に修錬を重ねて打成され、後進への育成も終えて亡くなった兼資の芸を思い、能楽を思ったとき、虚子には「一筋の大きな道」が一本すうっと貫いて見えたのであった。

 能楽と同じように俳句も師承であると考える虚子は、昭和28年、80歳となった自らの来し方を顧みた。子規から学んできたことを、後世の人に伝えるべく、今また自分も同じように、若き俳人を育ててきていることを思ったのであった。
 そこには、虚子にも「一筋の大きな道」が見えていたからではないであろうか。

 この作品は、昭和28年の作である。

 今宵は「秋の風」の二度目、高浜虚子の作品をみてゆこう。


  暁烏文庫内灘秋の風  高浜虚子 『七百五十句』昭和31年10月4日
 (あけがらすぶんこ うちなだ あきのかぜ)

 詞書は、「金沢、高木を訪ふ。松風閣にて句会。「河北潟(かほくがた)」一見。前日金沢大学にて暁烏文庫を一見せり。」
 
 暁烏文庫とは、暁烏敏(あけがらす・はや)が亡くなるにあたり、蔵書を金沢大学に寄贈した5万余冊の書庫の名である。暁烏文庫が完成したのは昭和25年4月29日。4年後の昭和29年に、明治10年生の暁烏敏は、次の言葉を残してこの世を去った。
 「よみたしとあつめしふみをのちにくるひとにのこしてやすくよをさる」
 
 「暁烏文庫」とは、真宗大谷派の高僧の暁烏敏(あけがらす・はや)が没後に金沢大学へ蔵書を寄贈した際につけられたもの。「内灘」は、金沢近郊の海岸で、米軍の試射場をめぐって基地闘争が繰り広げられた内灘闘争のあった地である。
 「暁烏文庫」と「内灘」は、文庫と米軍の演習場という2つの正反対のものである。
 暁烏敏は、高浜虚子の俳句の弟子でもあり「非無(ひむ)」と号した。
 
 句意はこうであろうか。昭和31年10月4日、虚子は金沢へ行き、五女の高木晴子を訪れ、松風閣で句会をし、金沢平野の北部の「河北潟」へ立寄った。金沢大学に収められた暁烏文庫を見たのは、前日の10月3日であった。そして4日のこの日、心のひきしまるような秋風の中で、当時はまだ米軍基地のあった内灘の地を詠んだのであった。
 
 この作品は、深見けん二先生の虚子俳句「輪講」に参加して知ったが、「暁烏文庫内灘」の緊張した措辞と季語「秋の風」とが、淋しさとなって響いてくるようだ。