第百五十七夜 森田 峠の「囀り」の句

  知恵伊豆の墓はこちらと囀れる 『三角屋根』
  
 知恵伊豆の墓とは松平伊豆守信綱のことで、埼玉県新座市の平林寺にある大きな墓所である。江戸時代前期の大名で川越藩藩主。老中。官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された。
 森田峠は吟行で訪れたのであろう。
 平林寺は、二十年前までは東京都練馬区に住んでいた私にとっても、深見けん二主宰の「花鳥来」の吟行会でも何回か出席した場所であり、俳句をする父や夫とも一緒によく車で出かけた場所であった。だが、何しろ13万坪の東京ドーム9個分という境内林なので、まだ隅から隅までは踏破しきってはいない。深々とした美しい雑木林の中の細道は、辺り中から鳥たちの鳴き声がしている。その囀りは、まるで「ハカハコチラ、ハカハコチラ」のように聞こえたのではないだろうか。鳴き声のする方へする方へと往くと、なんとまあ、そこは知恵伊豆の墓所であった、という作品である。

 森田峠(もりた・とうげ)は、大正十三年(1924)―平成二十五年(2013)、大阪市生まれ。国学院大学文学部卒。昭和十七年より俳句を始め、「ホトトギス」「俳諧」などに投句。岡安迷子に師事し、小諸に疎開中の高浜虚子に会いに行き、そこで「峠」の俳号を貰う。戦後、兵庫県で高等学校教員となる。昭和二十六年、阿波野青畝に師事し、「かつらぎ」に入会。翌年から編集を担当し、平成二年から主宰となる。〈母逝きぬ月の呼び名の無くなりて〉〈卒業子ならびて泣くに教師笑む〉〈まつすぐに物の落ちけり松手入〉など、「ホトトギス」系の俳人として写生に立脚した平明な作風。第二句集『逆瀬川』で俳人協会賞を受賞。
 
 もう一句、作品を紹介させていただく。

  師の家辞す春雨頬を打たば打て 『避暑散歩』

 この句には「かつらぎ庵」という詞書がある。峠は当時、「かつらぎ」の編集長であった。結社誌の編集会議というのは即、師青畝からの指導の場である。厳しい言葉があったかもしれない。かつらぎ庵を去る時には春雨が峠の頬を打っていた。
 「春雨頬を打たば打て」からは、師青畝の厳しい教えに納得している峠の姿が見えるようだ。季題は「春の雨」でなく「春雨」としたからであろう。しとしとと小止みなく降る雨はきっと峠の頬を激しく打ちつづけ、しかも心に沁み入ったのだ。

 青畝も、客観写生に反発した若き日に、虚子から指導の手紙を貰っていた。「御不平の御手紙を拝見しました。(略)しかし私は写生を修練して置くといふことはあなたの芸術を大成する上に大事なことゝ考へます。今の俳句はすべて未成品で其内大成するものだと考へたら腹は立たないでせう。さう考へて暫く手段として写生の錬磨を試みられたらあなたは他日成程と合点の行く時が来ると思います。」と。
 
 第一句集『避暑散歩』の解説を火村卓造(「耀」主宰)が書いている。その中に、峠の写生句に関しての言葉があった。「客観写生、主客融合の写生、機知的写生、即興風の写生、ムード的写生、技巧的写生、抒情的写生」(「俳句」47・9)などに分類を図りその信ずるところを進みつつある、と。