第百五十六夜 富田木歩の「冬木風」の句

  夢に見れば死もなつかしや冬木風 『富田木歩句集』

 作品を鑑賞してみよう。

 掲句は、「夢に見れば死もなつかしや」をどう読むかであろう。
 木歩は父や母や弟や妹たちの死を間近に見ていた。木歩自身も、蹇(あしなえ)だけでなく肺結核で寝込んだこともある。とくに、木歩と同じ肺結核であった妹のまき子を〈かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花〉の句に詠んだように、看取りの中に苦しみを見た。
 こうした夢に出てくる弟や妹をなつかしく思うのは、ごく自然である。
 だが掲句の死は、木歩自身の死の姿かもしれない。死の床に寝かされているのは自分で、周りにいて自分を囲んでいる人たちを懐かしんでいるのだと、私は、木歩は夢にそうした光景を見ていたのだと想像した。

 今日は「啄木忌」、明治十九年に生まれ、明治四十五年に二十六歳で亡くなった石川啄木の命日である。「千夜千句」のために、吉屋信子著『底のぬけた柄杓』の中の「墨堤に消ゆ 富田木歩」を読み返していると、貧困、肺結核、二十六歳の死という苦渋に満ちた人生が似ているからか、木歩が「大正俳壇の啄木」と呼ばれていたことを知った。木歩に〈病み臥して啄木忌知る暮の春〉という作品もあった。

 富田木歩(とみた・もっぽ)は、明治三十年(1897)―大正十二年(1923)、現在の東京都墨田区向島一丁目の生まれ。最初の俳号は吟波、後に木歩と号す。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能となる。俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、将来を嘱望されるが、関東大震災で焼死した。二十六歳の生涯であった。

 俳句との出逢いは、大正二年、少年雑誌の中にあった巌谷小波の俳句のページに惹かれたことであった。次に「石楠(しゃくなげ)」主宰の臼田亞浪が選をする「やまと新聞」俳壇や「ホトトギス」の原石鼎選にも吟波の号で投句した。大正四年、「石楠」に投句、臼田亜浪に師事するようになり、木歩は、歩けない自分は歩けない自分のままで生きるしかないという人生観で詠むと決めた。

 駄菓子屋を始め、入り口に「小梅吟社」の看板を掲げると数人の俳句の弟子ができた。そして大正六年頃、同じ「石楠」の俳人で、木歩の俳句を高く評価していた慶應義塾大学生の、同い年の新井声風との親交がはじまった。
 大正十二年の関東大震災では、劫火の中を、背中に木歩を背に括り付けて隅田川の土手の上まで辿り着いた。後には火の手が迫り、隅田川に飛び込むしかなかった。木歩は泳ぐことはできない。どんな思いだったろうか。声風は、「これまでだ」と、木歩の手を強く握った。木歩は黙って握り返したという。声風は隅田川に飛び込み、向う岸に着いて対岸を見ると土手には木歩の姿はなかったという。
 
 生き残った新井声風は、木歩の俳句や文章など全ての作品を書籍として残すことに努めた。昭和九年に『木歩句集と「木歩文集』、昭和十年に『富田木歩全集』、昭和十三年に『定本木歩句集』、昭和三十九年に『決定版富田木歩全集』を世に出した。
 
 もう少し、代表作品を紹介しよう。
 
  背負はれて名月拝す垣の外 
  我が肩に蜘緋(くも)の糸張る秋の暮
  己が影を踏みもどる児よ夕蜻蛉