第百八十九夜 あらきみほの「つばくらめ」の句

 この春は、不思議な符合がいくつかあった日々であったように思う。
 新型コロナウィルスのニュースが出た当初は、インフルエンザの一つかな、くらいに思っていた。中国の武漢の徹底した封鎖のニュースが届き、横浜に停泊中の型客船にコロナ患者がいると分かり、次にイタリア、スペインとパンダミック状態となり、海外からの帰国者と共に、日本も次第に患者数が増えるにつれて、やっと、パンダミックの意味(世界的な大流行)が見えない恐怖となった。
 日本が最初に、非常事態宣言を出したのが4月7日から5月6日まで、7都道府県であったが、最終的には47都道府県全域に及んだ。
 5月の連休が終わり、少しずつ解除されたが、依然、8都道府県は解除されていない。
 わたしの住む、茨城県は、5月14日に解除されたが、いきなり以前に戻るわけではなく、どこのお店も慎重に戻していくように感じている。
 
 コロナの日々の俳句は詠んできたので、いくつか紹介させていただく。
 
  日輪に真珠の雲や寒の明け
  
 二月の初めの午前中、信号待ちで空を見上げたときだ。雲の多い日で太陽は白じろとしている。日輪の在り処を見ていると、丸い玉のような雲が日輪の回りに湧き出すように見えた。山岳の俳句を詠む岡田日郎氏の『俳句背景 山の四季』に「真珠光」の言葉があった。雪と雲と日輪の織りなす不思議であろうが、この真珠光も丸い玉のようであったと思われる。
  
  春はあけぼの太陽にコロナあり
  
 私の書斎兼寝室の東の窓は朝日が真っ直ぐに差し込む。裸眼でずっと見ているとゆらゆらしてくるが、目を細めて見ると太陽の形がはっきり見える。このゆらゆらがコロナだ。このところ、毎日のようにテレビや新聞でコロナウィルスの映像を見、「コロナ」という語に触れているので、妙な親近感が湧く。
  
  テレワークの父と子らにも花の昼
  
 緊急事態宣言になって、我が家の娘も、ご近所のお父さん方もテレワークの人が多い。お昼どき、運動不足解消に犬の散歩に出たり、美味しいパン屋まで行ったり、街道の桜の並木を歩くことでささやかな気分転換をしている。
 
  つばくらめ電子書籍の『ペスト』読む
  
 若い頃に読んだカミユの『ペスト』の話を娘にすると、私のスマホに電子書籍を購入してくれた。2月の終わり頃であった。本は印を付けたりメモを書き込んだりしながら読むのが好きなので、なかなかページが捗らない。
 ところが、それが正解であった。物語は、ネズミの死骸が出、人が亡くなり、原因が分からずに人々は右往左往しはじめる。私が毎日少しずつ読んでいく本の中の出来事のスピードは、現在、日本で起こっているコロナのスピードと政治家たちの右往左往の姿と、私のコロナに感心を持ち、やがて怖いなと思ってゆくスピードとが丁度同じ位であった。
 
  已む無しはリウー医師になく野火猛る

 若い頃読んだカミユと言えば、「不条理」という言葉しか残っていないが、今回は、主役の若いリウー医師の、時間を越えて諦めず手を抜かずに医療を施す姿が心に響いてきた。「已(や)む無し」の言葉はなかった。
  
  エイプリルフール遁走できぬ地球人
  
 丁度、4月1日の「万愚節」、「四月馬鹿(エイプリルフール)」の頃に『ペスト』を読み終えた。この句の地球人は人間というほどの意味で使っているが、どこかへ逃げれば助かるということではなく、今回のコロナ感染でも、自分のやるべきことを、それぞれが守っていけば、みんなが助かることに繋がると気づいたのではないだろうか。
  
  春愁ひ天の憂ひにしたがへり
  
 「春愁」は、人間の世界の春が去ろうという頃の淋しい心持ちでを託した季題であるが、このコロナの日々は、なんだか天の計らいのようである。人間だけの力だけではどうにもならないかもしれない。天の憂いに従おう。