第百八十八夜 高浜虚子の「沙漠(さばく)」の句 『五百五十句』7

 『渡仏日記』には、三月六日に彼南(ペナン=マレー半島の西海岸)に下りて蛇寺に行き、途中で日本と同じ香の稲田を見たとある。その後、エジプトのスエズに入港する三月二十一日までは、『五百五十句』に作品は入集されていない。
 魔の海とも呼ばれる海と空と暑さばかりのベンガル湾での、虚子の船上での生活は、浴衣に袴をつけ草履姿で看板を歩き、船室では、岩波文庫を読み、ホトトギスの選をし、各方面の新聞や雑誌や俳誌への紀行文を箱根丸から電報で原稿を送り、俳句の揮毫をし、洋上句会もした。
 さらに、南洋ならではの新季語を実作による試みもしている。
 
  十七
  月も無く沙漠暮れ行く心細そ
     三月二十一日。午後三時、蘇士(スエズ)入港。陸路カイロに到りメトロポリタン・ホテル一泊。

 ■この句の背景
 スエズに入港した虚子一行は、箱根丸を降り、ピラミッドやスフィンクスやツタンカーメンなどを観るために一泊旅行をした。カイロまでは自動車で陸路を走った。掲句はその途中の砂漠の景。
 虚子六十三歳。季題[月=秋]

 ■句意と鑑賞
 「月も無く」……今宵は月も出ていない。
 「沙漠暮れ行く」……沙漠はどんどん暮れてゆく。
 「心細そ」……この暗い道を行くのは、なんだか心細い。

 これから陸路エジプトのカイロへ向かうのだが、道路は等間隔に街路灯があるわけではなく、自動車のライトが道幅だけを照らし、人の影もじきに枯木のように遠のく。初めて降り立った町ではあるし、前方の沙漠が、まるで暗い壁のようにも思われる。月の無いのは淋しい気もするが、砂漠の荒涼とした中では月明りなど無いほうがいいと虚子は考えた。

 ■月の砂漠
 「月の沙漠」という童謡がある。加藤まさを作詞、佐々木すぐる作曲で、大正十二年に作られて流行ったそうだから虚子も知っていたと思う。
 掲句の季題は「月」。だが「月も無く」と詠み出されたことで、この日の月は、私たちには見えない「新月」だとわかる。童謡の月光に照らされている月の沙漠ではなくなってしまった。一面に広がっているはずの沙漠が、月夜でないために見えなくなっているのだ。
 下五の「心細そ」と詠んだのは、六十三歳の虚子ではなく、童謡の世界に迷いこんだ、子どものような気持ちになっている虚子を想像するのも楽しい。
 
 ■中東の入り日
 自動車を走らせている前方に、真赤な日が今まさに沙漠に沈もうとしていた。
 「太陽の形が正視が出来るほど艶消しになつて居て、赤い大きな銅盤が沈むのである。」
 『渡仏日記』中の入り日の虚子の描写である。沈む直前の太陽が、赤々と大きく見えてくる。入り日を描写した「艶消し」「銅盤」などの言葉の、何と的確な具象化であろうか。
 
 ■カイロ見物
 ホテルに一泊して、翌日はラクダに乗ってカイロ見物である。スフィンクス、ピラミッドの見学をし、カイロ博物館へ行った。虚子は袴姿をひらりとさせて忽ちラクダの人となっていた。何をするにも虚子は日本にいる時と変わらず堂々としていた。
 カイロ博物館でガラス一枚を隔てて観たものは、章子にとって忘れられぬ形となって残っていると、章子は『佐介此頃』に書いているが、とくにツタンカーメンは後に日本で展示されたが、父虚子との旅で見た思い出を壊したくないからと観に行かなかったという。