第二百七夜 大牧 広の「春の海」の句

 大牧広氏の編著に、『秀句三五〇選 港』(蝸牛社刊)がある。あとがきには、「この三五〇句を鑑賞するに当たっては単なる客観に終始するのではなく、あくまで〈人の世の港〉という座標軸を据えて書くべきだと思っていた。」と、書かれていた。
 結社名の「港」にも、そのような姿勢で突き進んだのだと思う。
 
 鑑賞を試みてみよう。

  春の海まつすぐゆけば見える筈 『午後』
  
 平成元年、大牧広氏は俳誌「港」を創刊主宰することにした。「決めたからには、もう後には引けない。まっすぐに進むだけである。」という素直な心持ちを詠んだ。こつこつと、まっすぐに進んだ句業により、平成21年、現代俳句協会賞を受賞した。金子兜太氏から「協会側の対応は遅すぎる」と言われたほど満を持しての受賞であった。

  茗荷竹日曜のたび家を捨つ 『父寂び』
  
 「日曜のたび家を捨つ」は、大牧広氏の自註で理解できたが、確かに俳人は、土日には句会がある。吟行句会ならば、朝から吟行して、作句して、午後からは句会となる。終われば二次会があり、丸一日かかる。
 俳人の家族にとっては、妻は「俳句未亡人」の如く、子どもたちは「親なし子」の如くであるかもしれない。
 私が、かつて参加していた句会の熱心な男の人は、やっとの思いで第一句集を作り、一番先に奥様へ差し出したら、投げ返されたという、うーん、分かる。だがそこまでしないと、一流の俳人にはなれないのかと思った。
 「家を捨つ」は、俳人として、主宰者としての覚悟の言葉である。

  夏しんと遠くめぐらす朝の森 『朝の森』 
  
 『朝の森』は生前最後の句集。この句集及びこれ迄の俳句の実績を含めての蛇笏賞が授与されることが決まっていたが、大牧広氏は、膵臓癌のため6月の授賞式を待たずして5月20日に亡くなられた。88歳であった。
 戦前戦後、多感な若き日を過ごした大牧広氏は、反骨精神に満ち、反戦意識を強く持っていた俳人であった。例えば、〈正論が反骨となる冬桜〉〈敗戦の年に案山子は立つてゐたか〉〈達観は嘘だと思ふ新生姜〉などの作品がある。

 掲句から、闘い続けた俳句人生を振り返って、達観しているかのような納得しているかのような静かな心持ちで、遠くの朝の森を見ている大牧広氏が見えてくる。
 この作品の静かな句境は好きである。ふっと高浜虚子の〈遠山に日の当たりたる枯野かな〉を思わせる。
  
 大牧広(おおまき・ひろし)は、昭和6年(1931)-令和元年(2019)、東京都品川区生まれ。能村登四郎、林翔に師事。平成元年、「港」を創刊主宰する。平成21年、現代俳句協会賞。平成27年、第8句集『正眼』で詩歌文学館賞。平成28年、山本健吉賞。自身の戦争体験などを詠んだ第10句集『朝の森』は、戦後を生きた世代の批評精神やユーモアが評価され、令和元年、俳壇最高の賞とされる蛇笏(だこつ)賞に決まっていたが、仲寒蟬が代理出席。著書に『能村登四郎の世界』邑書林、『いのちうれしき ようこそ、高齢者のための俳句へ』文學の森、『俳句・その地平 その地平の夕映は美しい』文學の森、編著に『秀句三五〇選港』蝸牛社などがある。