ヒロコ・ムトーさん(本名は武藤紘子)と私が出会ったのは、青山学院大学の部活の初の会合だったと記憶している。当時は夢は大きく、この学校に入ったからには英会話くらいできなくちゃということが一番の動機だと思う。
今考えると可笑しいのだが、ESS(English Speaking Society)の説明会であった。
なぜ可笑しいのかというと、二人とも英語で話すことにどこか恥じらいを持っていた。普段はみごとなお喋りで人を魅了し、後に作家、作詞家、劇作家と幅広く活躍してゆくヒロコ・ムトーさんも、出版の仕事の関係から俳句を目指すようになった私も、当時は、毎日昼休みに班ごとに集まってのフリートーキングの参加は、こわごわ、なるべくサボっていた二人であった。
その時代から50年以上経っているが、時にみっしり、時に間隔はあったが、会えば、すっと昔に戻れる友人の一人である。
昨年の11月、しばらくぶりに電話を頂いた。電話を受けたのは私が大腿骨頸部骨折を手術した直後の病室であった。
ヒロコ・ムトーさんのお母さん(豆上紙人形作家のサコ・ムトー)の生誕の地である九州の門司で、4ヶ月後の平成31年3月に「JR門司港駅」のリニューアルオープンがあるという。その日に合わせて、これまでも何冊か書いているが、今度は母マサコ・ムトーの一生を書きたい・・間に合わす方法はあるかしら、と訊かれた。
私の方は、30年間続けた出版社を閉じていて、時折、句集などの自費出版をしている状況であったが、書店取次ルートを持たない自費出版でよければ、時間的には何とか間に合わせることは可能だと伝えた。
やはり本造りを考えるのはわくわくするほど楽しい・・私は二足歩行へ向けてリハビリに励み、退院し、『人生いつでも花開く』の最後の仕上げに取り組んだ。
■次に掲載するのは、書店、テレビ、新聞社へ書いた推薦文である。
本著の主人公、武藤正子ことマサコ・ムトーは大正2年に福岡県門司に生まれ、3歳から山口県下関に住むようになります。幼少の頃から海外貿易の要所であった門司港・下関港の二つの新風に触れ、やがて、プロテスタント系の梅光女学院の中で、自由な精神と真っ直ぐな気骨が育まれていきました。
しかし大正2年生まれの女性が、結婚生活や子育ての最中に羽ばたく自由などありません。結婚初日に「物言わぬ馬鹿となれ」という姑の言葉を守り続けて50年を過ごした正子は、夫が亡くなった70歳の時に、次のように記しています。
「私の人生はこれからです
自分の言葉を言っていいなんて
なんて自由なんでせう!」
70歳で通い始めたパステル画教室で、片目の視力は失明し残る片目もぼんやりとしか見えない状態の中で描き続けた作品は、78歳の時の一回目の個展で「心で描いている」「心の色だ」と絶賛され何紙もの新聞に取り上げられました。
その後、大腸癌、肺水腫、心臓、腎臓、骨折など入退院を繰り返しますが、「おばあちゃんの作品をもっと見たい」という声にマサコ・ムトーは、大きな作品は描けなくなりましたが、指先の感覚だけで、昔の生活や忘れ去られていく大正昭和の日本の風景を思い出しながら、手のひらに乗るような小さな豆紙人形を作り始めたのです。
「今、自分にできること」と生み出した素朴で愛くるしい豆紙人形は「宝石の輝きのようだ!」と称賛され、病気にめげることなく何度でも立ち上がり新しいことに挑戦し、88歳の豆紙人形作家として世の中に認められ、見事な大輪の花を咲かせたマサコ・ムトーの姿は人々に感動と励ましを与えるのでした。
「夢は叶うもの、叶うものと思い続けるもの」
本書『人生いつでも花開く』のタイトルから、この物語は、「老後をどう生きるか」というだけではなく、再び人生が、「いつからだって新しく始められる」ということに気づきます。
「失敗なんてたいしたことではありません
失敗くらいで死にはしませんから」
「今が始まり
今日が始まり
今日を悔いなく生きていれば
何があっても怖くない」
「大したことじゃない!
大したことじゃない!
大したことじゃない!
三度唱えれば たいていのことは そうなります」
「夢と希望は生きる力です」
夢や希望を抱き、その夢や希望を保ち続け、前を向いて生き抜く中で、小さな一つから始めても必ず、夢や希望は叶うものでしょう。
本書は、今から新しいことを始めるのは無理だと諦めかけている多くの人、若い人、もう歳だからと考えている人にとって、人生の乗り越え方、人生の歩き方のノウハウを教えてくれる力があります。
(推薦文より)