青山学院大学ESS.OB懇談会

 9月23日の秋分の日、母校の青山大学アイビーホールで開催のESS.OB会懇談会に参加するために、久しぶりで地下鉄「表参道」に降り立った。地上は、17号台風の余波であった。
 
  地下道を出るや野分に背を押され
  骨董通りぶらり色なき風のなか
  帰燕のごとしOB会に出席す  

 朝からの総会はパスして、「OG新著のご紹介」のコーナーで発表することになっていたので、お昼頃に到着した。
 このコーナーで自著の紹介をするのは、作詞家、作家のヒロコ・ムトー(本名・相澤紘子)さんと、私こと俳人あらきみほである。

  猫の画のだらりの帯や秋扇
  さやけしや夢の途中の面構へ

 1964年、今から55年前のESSの部活の説明会で、たまたま隣り合わせたのがヒロコさんとの初めての出合いである。しかも偶然に、お互いにDiscussion Sectionに入部することになった。そこから始まったのは、二人ともESSではちょっと「はぐれもの」で、2年生の頃には、退部していたのだ。それなのに、ヒロコさんはESSではとても目立つ女性として、上級生からも同級生からも下級生からも可愛がられる存在であった。
 
 人をとても大事にする人だから、一度友だちになると、私を含めて誰もがヒロコさんの友だちであり続けるという不思議な人。ヒロコさんの近著『人生いつでも花開く』は、私が編集者として関わった3作目だと記憶しているが、仕事ぶりも、一旦スタートすると凄まじい集中力を発揮する。今回の著書は、母である豆紙人形作家マサコ・ムトーの一生が綴られている。自ずから、ヒロコさんの根っこも見せてくれている作品となっているので、原稿を見せて頂いた瞬間に、私は「これは素敵」「一度は書いておくべき大切な本になる」というようなことを言ったように覚えている。
 
 さて、私のことだが、結婚後しばらくして、夫が出版社を立ち上げた。小さな出版社の経営は大変だったが、色々な人と出合い、色々なジャンルの本を作ってきたが、その中の一つが俳句であった。俳句はたった17文字という最短の文学だけど、短い俳句も深い意味があるので、一文字たりとも校正で間違ったりすることは許されない。俳句特有の省略、俳句特有の言い回しの決まり(文法)もある。
 私は、基本を学ぶべく、高浜虚子の最後の弟子と言われる深見けん二先生に近くのカルチャーセンター通い始めた。当然の成り行きだが、俳句にすっかりハマってしまった。
 虚子は、明治時代に俳句革新をした正岡子規門の双璧の一人と言われた人物で、俳誌「ホトトギス」の主宰者であり、現代の俳人のほとんどは虚子山脈と関わりがある。
 しかし、俳句の道も大変な道で、一生卒業ということはなさそうである。
 私は、青山学院大学で学んだ英語を、いつの日か何かの形で活かせたらと思いながら、月日が経っていった。
 
 今年の5月、平成から令和に改元された。
 私の俳句の道は平成元年の4月にスタートしたから、今の私は平成時代を共に生きてきたことになる。そう考えた時、30年間の一区切りを何かの形にしようと願った。娘と話しながら「電子書籍にのこしておこうよ。母の日のプレゼントにネット書籍にしてあげる」ということになって、「虚子研究俳句ノート」の4巻が決まった。
 これまで、深見けん二先生から多くを学んできたが、俳人論や句集評や虚子研究などを纏めて書く機会も与えてくれていた。その原稿はパソコンに置いたままのこっている。
 
 1巻目は『虚子と虚子をめぐる俳人たち』、2巻目が『俳句は生きている』である。出版社をしていた関係で様々な俳句や著書に触れることができていた関係で、当時インターネットマガジン「つれづれ俳句」を主催し、毎週のように綴ったものの抜粋が2巻目である。ESS.OB会懇談会に間に合わせて仕上がる予定であったが、都合で遅れてしまった。

  日月のおろそかならず葛の花

 短いスピーチではあったが、近著の紹介も兼ねて、2巻目に入れた佐藤和夫著『海を越えた俳句』から、カナダの小学生のハイクの話をすることにした。

  The friendly snowman
  Enjoying the sun`s heat
  Feeling the mistake
  
  人のいい雪ダルマが
  気分よく日向ぼっこをしている
  しまったと思いながら。

     スーザン・ハイアン(六年生、カナダ)

 ささやかだが、英語ハイクを一句紹介できたことで、英語にも関わりたいという私の一歩とさせていただこう。