一日一句の鑑賞を千夜続けるという試みをしてみようと考えた。令和元年十一月十日の私の誕生日にスタートし、千夜千句を無事に成し終えることができたら、三年後には、私は七十七歳となり喜寿を迎えていることになる。
理由の一つは、深見けん二の元で俳句を始めたのが平成元年で、今年の五月に令和の時代になったことである。
もう一つは、かつて拙著『小学生の俳句歳時記』を出版した折りに、著述家であり編集工学者である松岡正剛氏が当時ネットで「千夜千冊」という毎日一冊の書物の評論を綴られていて、その中の一冊として拙著を取り上げてくれことである。びっくりした。すごく嬉しかった。
毎日一冊の「千夜千冊」と、毎日一句の「千夜千句」では大きな違いがあり、しかも、真似をすることにもなるけれど、千日続けることが出来るかどうか、「千夜千句」は私にとって大きな挑戦である。
現在は閉じてしまったが、㈱蝸牛社という小さな出版社を夫婦で経営していた。ある時期から多く俳句に携わり、テーマ別アンソロジー『秀句350選』、古今東西の俳人の作品と鑑賞による『蝸牛俳句文庫』、俳句と随筆による『俳句・背景』というシリーズを刊行していた。
平成十一年から平成十六年までの六年間は、ささやかな新しい試みとして、週刊のインターネット上のメールマガジン「つれづれ俳句」、子ども俳句の「ハイクワンダーランド」(主宰・あらきみほ)を配信していた。
こうした中で、書籍の編集では芭蕉から子規、虚子、碧梧桐、蛇笏、秋桜子、草田男、草城、たかし、井泉水、万太郎などの作品に触れ、さらに現代に活躍している多彩な俳人の作品に触れながら、有季定型の十七文字も、無季の句も、短詩も、子ども俳句も、それぞれの俳人たちが命を削るようにして精魂を傾けた言葉であることに気づかされた。
どの時代でも名句といわれる作品は、その時々の喜びと哀しみに溢れていて、流派を超えて、繙けばいつだって「新鮮に心に響いてくる、生きている」作品があった。
深見けん二の弟子として虚子俳句を学ぶことによって、未熟ではあるが、私の中に大きな基盤を持てたことは俳人として幸せなことだと思っている。虚子はとてつもなく大きなお方である。虚子を乗り越えようとした戦後の俳人たち、現代の俳人の作品も、虚子がいま生きていたら・・「いいものはいい」と、虚子はかつてと同じに黙々と選をし、丸をつけ、巻頭作家にするにちがいないと思っている。
この「千夜千句」は、私の「自分探し」でもあり、無限広大なる自然、刻々変化する自然、育つ心、迷う心、変化する心、そうした中で生きている人間を是として、俳句の詩として見てゆけたらと考えている。
千夜では、俳人千人とは限らない。何回も登場する作家もいるに違いないが、なるべく多くの作品に触れてみたいと思っている。