第二百九十五夜 大峯あきらの「今年」の句

 昨夜9月1日、犬の散歩で玄関を一歩出るや、私は、虫たちの声にわーんと囲まれた。不思議だったのは、虫たちの声が草むらの中からではなく、もう少し高いところからの一斉に鳴いている「わーん」とした声であったことだ。
 虫の声が地上での鳴き声ではなく、浮いていることってあるのだろうか。
 昨夜は、月も星もなく、夜空はどこかどんよりと暗かった。夜更けには雨が降ったから、空気が籠もっていたのかもしれない。〈中空へ浮きては沈む虫の闇〉と、詠んでみた。
 宇宙が大好きで同じく西田幾多郎の哲学を学んだ夫と話しながら、大峯あきらの〈虫の夜の星空に浮く地球かな〉の句を思い出していた。

 今宵は、再び大峯あきらの作品を見てみよう。

  ことごとく今年の星となりにけり 「晨」より

 この作品は、高浜虚子が昭和25年12月20日に新年放送用のために詠んだ〈去年今年貫く棒の如きもの〉を思い出させてくれる。この作品を詠む10日程前には虚子は脳梗塞を起こしていた。
 虚子の晩年の弟子であった深見けん二師が常々仰っている。「この代表的な句を誰もが絶賛するが、皆、〈貫く棒の如きもの〉の中七下五に興味を持つが、この句の〈去年今年(こぞことし)〉という新年の季題が重要なのですよ。」、「時というものは刻々と流れ続けてをり、去年がありそして新年である今年が始まるのです。その時の流れを一本の棒のようだと捉えたのです。」

 掲句は、「今年」が新年の季題である。「ことごとく今年の星」というのは、突然に今年の星として現れたのではなく、今、大峯あきらの家の庭から見えている星々は、悠久の昔から宇宙にあって輝いている星で、そして今この星は、新年という目出度い日の「今年」の星になったのだ、と、改めて新鮮な気持ちで眺めていたのであろう。

  短夜の雨音にとり巻かれたる 『短夜』

 「短夜」は、夏の季題。ご自宅が、吉野山中にある専立寺なので、大いなる自然と真っ向から向き合って俳句を詠んでいらっしゃる。
 掲載句は、短夜の明け方、気がつくと雨音が寺中を囲むように響き渡っているという光景である。
 高浜虚子の晩年の10年間、ホトトギスで虚子に師事していた。同じ関西の波多野爽波に誘われて、ある時期、ホトトギスの若い俳人たちの「春菜会」に所属していた。同じ頃、東京では上野泰が代表する「新人会」ができ、そこには深見けん二師も所属していた。
 関西の「春菜会」と東京の「新人会」が合同で、虚子の下で稽古会をしたこともあったという。
 こうした経緯を聞き、また、自然を素直に詠む、驚きを持って詠む、見えないものを見る想像力が大事、瞬間を詠み留める、などの言葉の端々ではあるけれど、大峯あきらの清新にして磊落な表現は、虚子の作品にあるものであり、どこか懐かしく感じられる。