第四百三十七夜 森澄雄の「ふくら雀」の句

 雀は一年中見かけるが、厳寒には餌を求めて人家に近づく。朝日が赤々と登るころの電線には並んで止まっているかわいい姿を見かける。
 食べたことはないが、若い頃の父から「今日、雀の焼鳥を食べたよ」と、聞いたことがある。現在、山手線は「JR」と呼ぶことが多い。新橋駅にはガード下に立ち飲み屋が並んでいて、勤め帰りの一杯で、疲れを癒やす人が多かったという。
 冬の雀はとくに脂肪がのっているので焼鳥にして賞味されるという。寒雀や寒鯉たちが、冬に脂肪をつけているのは、寒さを防ぐ意味だが、人間はそれを賞味する。
 
 今宵は、「寒雀」と傍題の「ふくら雀」の作品を4句、見てゆこう。

  光悦の墓前にふくら雀かな  森 澄雄 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (こうえつの ぼぜんに ふくらすずめかな)

 句意は、本阿弥光悦の墓所のある光悦寺に立ち寄って、お墓の前に佇んでいると、寒雀たちも墓前にきていましたよ、となろうか。
 
 森澄雄が、1月の京都で遊んだ折のことであろう。あの絵師であり工芸家である本阿弥光悦の墓前にふくら雀もやって来ているとは、趣味のよい雀よ、と思った。餌のない季節の寒雀のことだから、墓前のお供物のおこぼれが目当てだったのであろうが、森澄雄一行の周りを飛ぶように歩いてゆく寒雀は、ふっくらとして可愛らしかった。

  とび下りて弾みやまずよ寒雀  川端茅舎 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (とびおりて はずみやまずよ かんすずめ)

 この作品は、中七の「弾みやまずよ」という平明な言葉で、寒雀らしさを見事にストレートに言い切っている。川端茅舎らしい、ここでは寒雀という対象物を凝視して生まれた「弾みやまずよ」には、やさしさが滲んでいる。
 
 句意は、寒雀が、屋根や電線から、すっと飛び下りてくるや、まるで手毬のように、ピョンピョンと弾んでいましたよ、となろう。

  猫抱けば猫の目が知る寒雀  大野林火 『新歳時記』平井照敏編
 (ねこだけば ねこのめがしる かんすずめ)

 句意は、飼主が猫を抱いて散歩しているとき、猫は主の腕の中で、女王様のように辺りを見回しているが、その目には寒雀の在り処をしっかり見定めていましたよ、となろうか。
 
 散歩が終わり、主の腕から下りた猫は、ペットの猫ではなく野獣に戻る。脂ののりきった美味しそうな寒雀を捕まえに追いかけ回すのではないか、と、主もちゃんと知っている「猫の目が知る」である。

 わが家の食いしん坊の犬にも感じているが、ペットである猫と飼主である人間との、ちょっとした鬩ぎ合いだ。そこが痛快だと思った。

  兎見斯う見ついばむは何寒雀  高浜虚子 『句日記』
 (とみこうみ ついばむはなに かんすずめ)

 「兎見斯う見」は「左見右見」と同じで「とみこうみ」と読み、あちらをみたりこちらをみたりすること、という意味で、大辞林にも載っていない漢字を当てている。「花鳥来」で虚子研究を共にした、大先輩にお聞きしてやっと「読み」を確認することが出来た。
 
  句意は、あちらを見たりこちらを見たりしているが、いったい何を啄んでいるのですか、寒雀さん、となろうか。

 「兎見斯う見」を詠み込んだ句は他に、昭和21年4月23日、虚子が小諸に疎開していたときの星野立子、上野泰たちと始めた稽古会で詠んだ作品に〈掌に種兎見斯う見大事かな〉があり、こちらは『六百五十句』に入れられている。