第四百四十六夜 渡辺純枝の「梅白し」の句

 1月23日につくば植物園に行ったときは、紅梅も白梅も「ああ、もう咲いている」というほどの咲き具合であった。今日は近くの守谷市の四季の里公園に立ち寄ってみた。つくば市よりも50キロほど南なので、もう咲いていると思っていたが、1輪だけであった。早梅は、たまたま早く咲くのではなく、早咲きの梅の木で、どうやら種類が違うようである。
 
 今宵は、渡辺純枝氏の作品を紹介させていただこう。
 
  梅白し月光は人あたためず  『空華』
 (うめしろし げっこうは ひとあたためず)

 句意は、満月に近いころの月光であろう。月光の輝きは梅の白さを更に白くしてくれているが、月光の下にいる人間を温めてくれることはありません、となろうか。
 
 月そのものが燃えている星ではないから、太陽のように温めてくれることは勿論あるはずはない。しかし月光は、より白く梅の白さを引き出して輝かせている。「あたためず」と否定形として、「つめたい」としなかったことで、逆に「あたたか」さを感じさせてくれる。梅の花の咲く春の暖かさを感じさせてくれると、取ることもできるのではないだろうか。

  常磐木といふ哀しみを黄落期  『秀句三五〇選 死』倉田紘文編
 (ときわぎといふ かなしみを こうらくき)

 この作品は、蝸牛社の秀句三五〇選シリーズの第6巻の『死』の中で、倉田紘文先生が丁寧な鑑賞をしてくださった。
 「常盤木といえども落葉をし、新生するのであるが、それはきわめて地味である。いつ知れずに入れ替わるというようなところがある。華やかに彩鮮やかに散ってゆく木々たちを羨む常盤木たち。このような受けとりのできる作者は、よほど他の人の心を知る人だ。」
 
 句意は、黄落期になると落葉樹たちは美しく紅葉して颯爽と散ってゆく。一方、常盤木にしてみれば、少しずつ葉を目立たぬようにそうっと落として新しい葉と入れ替えている。変化していないように見えることが、なにか淋しく哀しいものなのですよ、となろうか。
 
 先日、つくば植物園の広場の真ん中の、楠(くすのき)の見事な大樹が、冴え冴えとした風にゆっさゆっさと揺れている姿に出合ったが、あの揺れ方はまさに貫禄ある姿であった。よく行く植物園だが、1月半ばの園内は、入口のメタセコイアもラクウショウも、多くの木々は葉を落としていた。
 この作品に出合って、常盤木にも「哀しみ」があることを知った。

 渡辺純枝(わたなべ・すみえ)は、昭和22年(1947)、三重県の生まれ。昭和60年、長谷川双魚主宰誌「青樹」の同人。平成20年に「青樹」終刊。平成21年、「濃美」へ同人参加し、平成23年に「濃美」主宰となる。句集、『只中』『空華』『環』『凜』の他、アンソロジー『現代俳句の精鋭』「現代俳句の新鋭」など。