第四百四十五夜 長谷川素逝の「麦の芽」の句

 1月30日は、マハトマ・ガンディが1948年に暗殺された日である。イギリス植民地であったインドを、イギリスからの独立運動を指揮した。運動は一貫して「非暴力、不服従」であった。
 1982年に映画『ガンジー』が日本で公開されると、私は、小学6年の娘と5年の息子を連れて、銀座の映画館に行った。
 独立運動といっても戦があるわけではなく、白い布をまとった長い一団が、ひたすら行進してゆく姿が画面に長々と映し出されていた。反対勢力からは石を投げられたり棒で叩かれたり、ガンディたちは何一つ抵抗もせず血を流したりしながら、怒りもせず力による反抗もせず、行進は続けられた。
 子どもたちは、退屈だったと思うが、じっと見ていた。「非暴力」が何なのか、「不服従」は何なのか、理解できなかったかもしれない。それでも、ガンディの「進み続ける」一念の表情から伝わるものがあったのではと思った。
 ガンディが射殺されて亡くなったのは、インドがイギリス連邦王国のインド連邦ができた後の、印パ戦争の最中のことであった。

 ガンディの死を思い、さて俳句の季語を考えたとき、冬の季語「麦の芽」を思った。種を蒔くのは秋の10月の頃だ。3、4ヶ月でやっと寒い大地から麦の芽は出てくる。
 
 今日は、利根川を越えた台地に麦畑が広がっていることは知っていたので、見に行ってきた。5、6センチほど伸びていたが、まだ真っ直ぐに立ち上がってない麦の芽もあった。すこし走らせると、青々として、畝の筋も見える麦畑もあった。
 この麦が大きくなり黄色の穂麦となるのは、6月の頃である。
 
 麦が育つのは随分と時がかかることを思った。

 今宵は、長谷川素逝の「麦の芽」の作品を紹介してみよう。

  麦の芽のうねうねの縞丘をなし  『定本素逝集』
 (むぎのめの うねうねのしま おかをなし)

 長谷川素逝(はせがわ・そせい)は、「千夜千句」の第七十一夜目に〈馬ゆかず雪はおもてをたゝくなり〉を紹介した。「ホトトギス」の作家で、戦争俳句では6回も巻頭となった。戦地から戻った素逝は、40歳で亡くなるまで穏やかな作品を詠み続けたという。
 
 句意は、麦の芽がようやく青々としてくる、畝の縞もはっきり見えるくらいの背丈の頃、1月の終わり頃の光景であろう。麦畑は丘まで続いていますよ、となろうか。
 「うねうねの縞」の表現から、辺りはまだ稲作も始まっていない田があるばかりの枯れ色の中で、麦の芽の青さ、麦の芽の背丈、麦畑の広さが伝わってきた。【麦の芽・冬】

  麦の芽や地の暦日のいつはらず  
 (むぎのめや ちのれきじつの いつわらず)

 句意は、秋の終わりに麦の種を蒔いて、もう冬の終わりになろうとしている。こんなに長いこと麦は芽を出さないのだろうか。いや、種を買うときにお店の人はきちんと説明をしてくれていた。地中に長いこといるけれど、必ず春になる前には麦の芽は出てきますよ、と言われた。本当に、麦の種は、大地の月日の経過どおり、地の約束通りに、1月の終わりにはこうして麦の芽が出てきましたよ、となろうか。
 
 「暦日」は、月日の経過のこと。大自然の運行は正確である。温暖化になって少しずつ変わってきたところはあるけれど、「冬は必ず春となる」という大いなる約束は守られている。
 「地の暦日のいつはらず」の措辞とは、何と素敵な表現であろう。
 
 ガンディが銃弾に撃たれて、亡くなる1月30日の朝の様子が残されている。
 「一月三十日も、いつものように、毎日の日課が午前三時三十分に祈りとともに始まった。ガンディはマヌに、これまでついぞ所望したことのない讃美歌をうたってくれとたのんだ――
   
   疲れていてもいなくとも、
   おお人よ休むことなかれ
   
  彼もまた、どんなに身は疲れ心痛めるときも、休むことはなかった。」(『ガンディの生涯』第三文明社刊)