第四百四十八夜 住宅顕信の「豆がまかれる」の句

  くまさん      まどみちお
  
 はるが きて
 めが さめて
 
 くまさん ぼんやり かんがえた
 さいているのは たんぽぽだが
 ええと ぼくは だれだっけ
 だれだっけ
 
 はるが きて
 めが さめて
 くまさん ぼんやり かわにきた
 みずに うつった いいかお みて
 そうだ ぼくは くまだった
 よかったな
        (童話屋刊『ポケット詩集』より)

 2月2日の今日は節分。毎年2月3日が決まりだと思っていたので驚いたが、124年ぶりに2月2日になったという。太陽と地球の位置関係で少しずつ余る時間は、4年に一度の閏年で調節できているものと思っていた.
 やはり、124年ぶりに1日早く節分となった日を、生きている間に体験できたことが不思議にうれしい。生年によっては巡り合うことがないことだってある。
 何だかヘンと思いつつ、近ごろは買わなくなっていた福豆や恵方巻を準備した。
 まどみちおの詩の中のくまさんも、ええと、きょうはなんにちだっけ、と、もう一つ戸惑っている顔が見えそうだ。
 
 今宵は、節分の俳句を紹介してみよう。
 
  鬼とは私のことか豆がまかれる  住宅顕信 『未完成』
 (おにとはわたしのことか まめがまかれる)

 住宅顕信(すみたく・けんしん)は、昭和36年(1961)-昭和62年(1987)、岡山市生まれ、自由律俳句の俳人。顕信は、浄土真宗本願寺の僧侶としての法名であり、俳号でもある。
 
 句意は、節分の日に幼い息子から「おにはそとー! ふくはうちー!」と、豆を撒かれた。この時には顕信は、急性骨髄性白血病で入院していたので、病院に連れられてきた息子は、今日はお父さんにこの豆をぶつけていいのよ、と言われていたのだろう。いきなり幼い子から豆が飛んできた顕信は、おおっ、鬼って私のことなのか、と、豆をぶつけられて改めて、鬼であり、つまり父親であることを思った、となろうか。

 節分では、豆を蒔くのはお父さんの役割だから。
 息子が生まれてすぐに妻と離婚している。息子を育てたのは顕信の両親であろう。顕信は25歳で亡くなったが、そのとき息子は2歳半であったという。自由律俳句で、季語は気にして作品作りをしていないが、ここは「豆まき」でよいと思う。

  豆まきや僕は一発ストレート  小5 井上良太 『子ども俳句 170選』あらきみほ
 (まめまきや ぼくはいっぱつ すとれーと)

 鬼の面をかぶっているのはお父さんだとわかっているから、子どももお母さんも容赦しない。思いっきり豆をぶつけている。季節の変わり目に出やすい病気などの災いを「鬼」といい、「鬼は外」といって追い払い、「福は内」といって新しい春を迎える行事が「鬼やらい」である。
 
 句意は、豆まきの日には、作者の良太くんは、一発ストレートで鬼に豆をぶつけて、やっつけてやるんだ、となろうか。
 
 家族全員で、鬼のお父さんを追いかけて豆を投げるから、家の中にも福豆が散らかっている。その福豆を片づけることが目的かもしれないが、お母さんは、「年の数だけ食べていいのよ」と声をかける。
 おじいちゃんは、「80個は食べられないね」と小さな声で言っている。
 
 さて、わが家でも豆まきをしよう。いちばん喜ぶのは犬のノエルだ。