第四十四夜 阿波野青畝の「案山子」の句

  案山子翁あちみこちみや芋嵐  阿波野青畝『萬両』
 
 鑑賞をしてみよう。
 
 里芋の葉が風に大きく茎ごと揺れている様を「芋嵐」と捉えたもので、青畝の造語である。畑の番をしている貧弱な棒きれで作った案山子もまた、強風に煽られている。青畝は、案山子を「案山子翁」と言い、その左右に揺れる様を〈あち見こち見〉とユーモラスに捉えた。
 
 阿波野青畝(あわのせいほ)は、明治三十四(1899)年、奈良県高取町の生まれ。俳句はホトトギス同人の原田浜人(はらだひんじん)に学ぶ。大正六年、青畝は十八歳でホトトギスに初入選。若くて難聴でもある青畝は熱烈なる叙情の句を作っていた。
 
 ある時、当時のホトトギスの客観写生ばかりの風潮が面白くなくて、青畝は虚子に不満の手紙を書いた。
 ところが、この一介の青年に虚子から次のような返事が届いた。
「御不平の御手紙を拝見しました。(略)しかし私は写生を修練して置くといふことはあなたの芸術を大成する上に大事なことゝ考へます。今の俳句はすべて未成品で其内大成するものだと考へたら腹は立たないでせう。さう考へて暫く手段として写生の錬磨を試みられたらあなたは他日成程と合点の行く時が来ると思います。」
「あなたの如き叙情の句を作る人にこそ、より多く客観写生を勧める必要がある。」
 
 次の作品は、虚子から主観を抑える返事の手紙をもらった青畝が、写生をしようと燃えての一句だという。
 
  緋連雀一斉に立つてもれもなし 『萬両』
 
 「一斉に立つてもれもなし」の措辞が、鮮やかな緋連雀の群れが、一羽のこらず一斉に翔ってしまったあとの侘しさを表現している。写生によって若き日の青畝が得た句境であった。
 昭和四年「かつらぎ」を創刊主宰する。

 昭和七年四月、虚子一行の花時の旅の西山十輪寺のお花見句会に青畝も大阪から参加した。耳の聞こえない青畝は、皆と少し離れて微笑むように青畝は花を見上げていた。〈聾青畝ひとり離れて花下に笑む〉と、虚子は当日の青畝をこう詠んだ。虚子やホトトギスという大きな根に、根本で繋がっていることに安心して俳句に精進する青畝が見えるようだ。

 平成三年、俳話俳文集『俳句のよろこび』の中で、青畝はこの日のことに触れている。
「また離れ離れの状態にある個性を持つわれわれの存在ということは、見えぬところにつながりあうているわけで、元は大きな根一つに帰一している」と。