第五百夜 虚子の花鳥諷詠時代の始まり 第6日

 昭和3年4月、高浜虚子は、大阪毎日新聞社講演で「花鳥諷詠」と提唱し、「季題(花鳥=自然)を詠む特殊な文芸」という俳句観を示した。花鳥諷詠を唱導した後の虚子の俳句観は、その後は生涯にわたり変わることなく貫いた。
 虚子は「花鳥諷詠」を、「俳句は自然(花鳥)を詠い、また自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である。」と、考えている。
 
 女性俳句は、大正2年に、夫の長谷川零余子とともに「ホトトギス」投句していた長谷川かな女に声をかけたことに始まる。まだ女性だけで吟行することのなかった時代に、回覧・互選式の「婦人十句集」で題詠し、句稿は虚子選を経て「ホトトギス」に発表された。次に「婦人俳句会」ができ、ホトトギス誌上に「台所雑詠」欄が創設されると、全国から女性が投句、男性に伍して「雑詠欄」にも入選するようになった。〈羽子板の重きが嬉し突かで立つ〉の長谷川かな女、〈めまぐるしきこそ初蝶と言ふべきや〉の阿部みどり女、〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎〉の竹下しづの女、〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉の杉田久女らがいた。

  谺して山ほととぎすほしいまゝ  杉田久女 昭和7年作。
 (こだまして やまほととぎす ほしいまま)
  
 久女は、英彦山へ何度も登って、山ほととぎすの鳴き声を聞き、ようやく下五の「ほしいまま」を得たという。この作品は、昭和6年の日本新名勝俳句大会で虚子選の風景院賞受賞によって久女は一躍有名になった。

  初夢にまにあひにける菊枕  高浜虚子 昭和7年1月6日
 (はつゆめに まいあいにける きくまくら)

 句意は、頂いた菊枕は、新年2日の初夢に間に合いましたよ、よい夢をみましたよ、となろうか。

 「菊枕をつくり送り来し小倉の久女に。」の詞書がある。雑詠欄で2度も巻頭作家にもなった久女は、昭和7年、俳誌「花衣」を創刊、虚子へのお礼であろうが手作りの「菊枕」を贈った。菊の花を干して香り豊かな花弁を、ソバ殻の代わりに縫い込んだのが菊枕だ。
 心を込め過ぎたプレゼントは、たとえば私ならお断りしたくなりそう。だが虚子は、『五百句』にも『贈答句集』にも入集したほどの贈答句を詠んだ。
 
 この後の悲劇は、虚子が小説の題材にしたことは久女には厳しい事であったが、「ホトトギス」という大結社の主宰者としては「除名処分」は、「そうかもしれない」と思った。
 
  聾青畝ひとり離れて花下に笑む  高浜虚子 昭和7年
 (ろうせいほ ひとりはなれて かかに笑む)

 句意は、難聴である阿波野青畝が、ひとり皆と離れたところで十輪寺の小塩桜を見上げ花に埋没していましたよ、となろうか。

 虚子は、約2週間にわたる名古屋、京都、大阪へ「花時の旅」に出かけた。4月16日、京都洛北の西山十輪寺で蜻蛉会のよるお花見句会が催され、阿波野青畝も参加していた。
 青畝は花の世界に埋没しているらしい。耳が聞こえないだけ一層自分の世界へ深く入れるのだろう。青畝の口元は微笑んでいるように見える。この微笑みは何だろう。
 
 虚子は、大正4年の最初の出逢いで18歳の難聴の生年青畝を励ました。また、大正8年、客観写生に抗議の文を送ってきた青畝にこう言った。「あなたの如き抒情の句を作る人こそ、写生をすべきである。」と、虚子が諌めたこともあった。
 青畝は、それらを乗り越えて努力の日々を重ねた。「かつらぎ」主宰となり、句集『万両』を上梓し、ホトトギスでは何度も巻頭作家になった。
 
 数年後、青畝が甲子園に新居を建てた時、虚子はお祝いとして「花下微笑」と揮毫した。後に青畝は『花下微笑』という句集を作った。
 さらに、青畝は著書『俳句のよろこび』の中で、掲句の「離れて」について虚子の〈一つ根に離れ浮く葉や春の水〉の句を挙げて次のように言っている。
 「また離れ離れの状態にある個性を持つわれわれの存在ということは、見えぬところにつながりあうているわけで、元は大きな根一つに帰一している。」
 
 虚子の『五百句』は、主観、写生、客観写生、客観描写を経て、花鳥諷詠詩にたどり着くという虚子俳句の必須の道筋であったことが朧ながらわかりかけてきたように思う。
 「俳句はどこまでも客観写生の技倆を磨く必要がある。その客観写生を努めていると、その客観描写を透して主観が浸透して出て来る。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって客観写生の技倆が進むにつれて主観が頭をもたげて来る。」