四Sの活躍する第二期黄金時代直前の大正9年、京大生の日野草城が「ホトトギス」に先ず颯爽と登場する。インテリ青年層が活躍する幕開けであった。関西では大正9年、日野草城と鈴鹿野風呂を中心に「京大三高俳句会」が生まれ、東京では大正11年、水原秋桜子の提唱により、富安風生、中田みづほ、山口青邨、東大生になって上京した山口誓子を中心に「東大俳句会」が結成され、以後、高野素十、赤星水竹居、中村草田男らが加わった。
丸ビルの「ホトトギス」事務所で行われた「東大俳句会」で、虚子は熱心に直接指導をした。『ホトトギス巻頭句集』には大正13、14年頃には秋桜子、誓子、青畝、草城、茅舎らが、15年には素十、みづほらが、昭和初頭には青邨や後藤夜半らが、巻頭作家になっている。
昭和14年10月号から始まった「ホトトギス雑詠句評会」は、「京大三高俳句会」「東大俳句会」での研鑽した作家たちが次々巻頭作家となり実を結んだ結果であろう。
「ホトトギス」創刊百年1200号記念出版では『ホトトギス雑詠句評会抄』『ホトトギス巻頭句集』『ホトトギス名作文学集』の3冊が刊行された。
書き込みと付箋で一杯になっているのが『ホトトギス雑詠句評会抄』だ。虚子が直接指導をされ、第二次黄金時代といわれるようになった作家たちの、今に残る名句がずらり並んでいること、作家たちの相互の鑑賞があること、何より凄いのは虚子の、他の誰とも違う鑑賞の切口の圧倒的な鋭さである。
こうした中で昭和3年4月、高浜虚子は、大阪毎日新聞社講演で「花鳥諷詠」の提唱をした。
同3年8月、山口青邨は「ホトトギス」俳句講演会で「どこか実のある話」の中で提唱した「東に秋素の二Sあり!」「西に青誓の二Sあり!」という名文句とともに「四S」作家たちは活躍を始めた。
今宵は、「ホトトギス」の作家たちが興隆する中での虚子の作品を見てゆこう。
白牡丹といふといへども紅ほのか 大正14年5月17日。
(はくぼたん といふといへども こうほのか)
句意は、白牡丹といっても、どこかしら紅色がほのめいていますよ、となろう。
上五は「白牡丹」という6文字、中七の「いふといへども」には花のたゆたうような調べがあり、下五で「白」の中にあるかなしかの「紅」の発見となった。白に紅がほんのり加わったことで、白牡丹のたおやかな高貴さが強調された。
ある時、武原はんの地唄舞「雪」を観にいった。白い衣装のはんは舞台の上でほぼ動いてはいないが、内に溢れる張りがあってこその静かさの舞は、この白牡丹の句と重なるようであった。
大空に伸び傾ける冬木かな 大正15年作。
(おおぞらに のびかたむける ふゆきかな)
句意は、葉を落とした1本の冬木が幹を輝かせています。大空に向かって伸びている幹も傾いている幹も、そのままを堂々と見せて立っていますよ、となろうか。
この作品は、光が丘NHKカルチャーセンターの深見教室で最初に教えて頂いたもので印象深い。写生、客観写生という言葉は初めてであったが、光が丘公園には欅の大木が多く、雑木林は好きなので、この句の大樹の冬の姿はすっと心に入ったことを覚えている。
流れゆく大根の葉の早さかな 昭和3年11月10日 九品仏吟行
(ながれゆく だいこんのはの はやさかな)
句意は、小川の橋の欄干に凭れていたとき、非常な早さで大根の葉が流れてくるのを見かけましたよ、となろうか。
田園調布の九品仏(くほんぶつ)吟行での作。晩秋初冬の頃、多摩川辺りを歩いて、ある小川の橋の上に佇んで水を見ると大根の葉が非常な早さで流れていた。
虚子は、「之を見た瞬間に今までにたまりにたまって来た感興がはじめて焦点を得て句になったのである。その瞬間の心の状態を言えば、他に何物もなく、ただ水に流れてゆく大根の葉の早さということのみがあったのである。流れゆくと一息に叙した所も、一にその早さにのみ興味が集中されたからのことである。」と、改造文庫の『句集虚子』(昭和5年3月)の自序の中で書いていた。
さらに、「自然界の一つの相を描いた」ものであると自解している。
この句は、写生の極至を示す句として虚子の代表句に数えられている。
だが、恥ずかしいことに私は、掲句の季題が「大根洗う」であることを、今回、調べ直して改めて知った次第である。
今では都会の田園調布にも、当時は小川で大根を洗うという生活があったのだ。流れてくる大根の葉を見て、大根を洗った時に大根から外れて流れてきた葉であることに思いは至らなかった。