第五百六十二夜 富澤赤黄男の「蟻」の句

 童話の「アリとキリギリス」を思い出してみる。
 キリギリスが野原で歌をうたっていると、むこうからアリが、ぞろぞろと歩いてくる。「おもたそうに何を運んでいるんだい」、とキリギリスがアリに訊くと、アリは「冬になる前に食べ物を貯めておこうと運んでいるのですよ」と答えた。キリギリスは笑って、「まだ夏だよ。食べ物はいっぱいあるし、いま思いっきり遊んでおかなくちゃ、つまらないよ」、と笑っている。
 やがて秋になり冬になると、野原の草は枯れ果てて、キリギリスの食べるものはなくなった。お腹が空いたキリギリスは、アリを思い出し、食べ物をわけてもらおうとした。
 アリは、「ここには、家族が冬を越すだけの食べ物しかありませんよ」と断った。
 
 ここまで思い出して、そうか、アリはキリギリスの頼みをすげなく断ったのだと知った。
 
 今宵は、夏の季題「蟻」の句をみてみよう。

■行列

 1・ひとの瞳のなかの蟻蟻蟻蟻蟻  富澤赤黄男 『秀句三五〇選 虫』蝸牛社
 (ひとのめの なかのありあり ありありあり) とみざわ・かきお

 2・蟻の列しづかに蝶をうかべたる  篠原 梵 『秀句三五〇選 虫』
 (ありのれつ しずかにちょうを うかべたる) しのはら・ぼん

 3・死に切らぬうちより蟻に運ばるる  相生垣瓜人 『秀句三五〇選 虫』
 (しにきらぬ うちよりありに はこばるる) あいおいがき・かじん
 
 4・蟻の列切れしがつなぐ蟻走る  福永耕二 『秀句三五〇選 虫』
 (ありのれつ きれしがつなぐ ありはしる) ふくなが・こうじ
 
 5・蟻の道天へ天へと大欅  深見けん二 『菫濃く』 
 (ありのみち てんへてんへと おおけやき) ふかみ・けんじ

 深見けん二に〈デッサンの蟻百態のノートあり〉の作品がある。蟻や鳩や猫などの小動物を単純化した線で描いた画家熊谷守一に蟻百態を描いたデッサン帳がある。庭に茣蓙を敷いて、蟻の目線になって眺めた作品である。
 
 1句目、富澤赤黄男は、昭和10年の新興俳句運動の新鋭。新詩精神を重んじた作家。黒い瞳に蟻が小さく映っているのが見える。一匹一匹は動いている。その姿を、孤独な蟻の集まりと見たのであろうか。「蟻」の文字が5つ並んでいるが、黒い瞳と蟻の黒さが凄いインパクトで迫ってくる。
 2句目、篠原梵は、臼田亜浪の門下で新鮮な叙情俳句を詠んだ。掲句は代表句。獲物として捕えた蝶を運んでいる長い蟻の列。『秀句三五〇選 虫』の編著者の宮坂静生氏は、「しづかに」「うかべたる」の表現が醸し出す世界は能舞台の幽玄の美であると、鑑賞した。
 3句目、この作品は怖さがある。たとえば、のたうち回るミミズであったり羽撃く蛾であったりするならばどうであろう。それは「死にきらぬうちより」運ばれてゆく獲物なのだ。
 4句目、蟻の列が何かの拍子に途切れた。気づいた蟻は慌てて追いつこうとして走り出す。私も見たことがある光景だ。誰もが見たことがある光景を、丁寧な客観描写をして蟻の生態として詠み止めておくことは価値のあることだと思っている。
 5句目、大欅の上に蟻の巣があるのだろうか、それとも木の芽が美味しい餌なのであろうか、幹には美味しい蜜があるのだろうか。蟻が行列になって動くのは、餌を見つけに行く時、餌を抱えて巣に戻る時だと考えているので、将と考えた。

■単独行動

 6・止りし蟻の思案のすぐ終り  深見けん二  『星辰』 
 (とどまりし ありのしあんの すぐおわり) ふかみ・けんじ

 7・足もとの蟻の話の聞こえさう  深見けん二 『蝶に会ふ』
 (あしもとの ありのはなしの きこえそう) ふかみ・けんじ
 
 深見けん二先生は、縁側に腰を下ろし、時には下駄を履いて歩き、庭を眺めているとお聞きしたことがある。そんな折に蟻の動きを観察するのであろう。『深見けん二俳句集成』には平成26年(2015)初夏までの作品が収録されている。季題「蟻」は9句であり、好きな季題の1つであるように見受けた。

 6句目、つねに走り回るように動く蟻がふと止まることがある。此方へゆくか其方へゆくか、蟻は大きな頭をちょっと傾げたのであろう。その姿は思案しているように見えたという。
 7句目、けん二先生の足もとに数匹の蟻が来て立ち止まった。ざわつくような動きが、互いに相談をしているようにも見える。熊谷守一と同じで、蟻を間近に、蟻の言葉まで感じているようだ。