第五百六十一夜 川崎展宏の「夏の月」の句

 今日は、スーパームーンの満月で皆既月食である。
 7年前の2014(平成26)年の皆既月食は、利根川の取手の土手から眺めた。このような時には黒犬オペラを連れていたが、2年前に亡くなっていたので、1人で出かけた。
 だが土手の上には、皆既月食を観にかなりの人が集まっていた。どれほどの間だったろう。だんだん光が失われ、赤黒い「赤銅色(しゃくどういろ)」と呼ばれる月としばらく対峙していた私は、〈月蝕や大きな林檎うきあがる〉と詠んだ。

 皆既月食は太陽と地球、月がほぼ一直線に並び、月が地球の影に完全に隠れる現象である。
 今日のスーパームーンの満月は午後6時44分から欠け始め、午後8時9分から約19分間にわたって皆既食の状態となるという。夫と黒犬ノエルと私は、午後7時半には利根川の土手に到着した。すでに30台ほどが南東に向けて駐車している。
 この土手は、360°全域がぐるり見通せるのだが、まだ月はない。かなりの雲量ではあったが、真上には一等星が輝いている。もう少し待てば月は見えるはず、と思いつつ待ったのは私たちだけではなかったが、時計は8時半、もう雲の向こう側の月食は終わっている。
 やっと諦めて、帰宅して、ネットをチェックすると、今夜の雲量は予報よりずっと多くて、東京でも皆既月食を観ることができなかったとある。滅多にない「スーパームーンの満月」と「皆既月食」の天体ショーは叶わなかったが、初夏の大利根の夜風川風に吹かれることができた。

 今宵は、季題「夏の月」の作品をみてみよう。

 1・海界を離れて速き夏の月  川崎展宏
 (うなさかを はなれてはやき なつのつき) かわさき・てんこう
 
 句意は、海界から離れて昇ってくる月を見ると、最初は海水の重さを引きずっているように感じられるが、海から離れるや、ぐんぐん空へ昇っていくようなスピードである、それが夏の月ですよ、となろうか。
 
 「海界(うなさか)」とは、海神の国と人の国とを隔てると信じられていた境界のこと。海のさかい、海の果のこと。海から昇る月を「海界を離れて」ゆく月だという。海神は、ギリシャ神話ではポセイドーン。ローマ神話ではネプチューン。日本神話では海神(ワタツミ)など幾つも名を持つ。
 その海神の住む国と人の住む国を隔てている境界が海界(うなさか)である。
 実際には月は海から昇るのではなく、地球から遠く離れた宇宙にある月が、我々の住む地球の地平線から現れたとき、人の目には地の境である地平線から昇ってくるように見えるし、また、海辺にいて眺めれば海の果は水平線となる。

 2・夏の月皿の林檎の紅を失す  高浜虚子
 (なつのつき さらのりんごの べにをうす)  『五百句』

 句意は、夏の月が出ている。テーブルに置かれた皿の林檎の紅色が、ふと見ると紅色が消えていましたよ、となろうか。

 詞書に「大正7年7月8日 虚子庵小集。芥川我鬼、久米三汀来り共に句作。」とある。
 星野立子の『虚子一日一句』には、「芥川さんと久米さんが菅忠雄さんに案内されて父を訪ねて来られた。兄(年尾)も加わり俳句会。芥川さんも久米さんも随分大人のやうに私には見えた。芥川さんといふ方を、髪の長い不思議な人だと思って見た。」と書いている。
 芥川我鬼は芥川龍之介。久米三汀は久米正雄。共に小説家で俳人。虚子は大正2年には小説を辞めて俳句に立ち戻って「ホトトギス」に邁進した。芥川我鬼は一時「ホトトギス」に投句していた。
 掲句は、このような関係の3人が集って句作をしたときの作品。
 
 この作品は、「皿の林檎の紅を失す」の調べに魅かれていたが、正確に意味がとれずにいた。1つは、私は今まで「失す」を「しっす」と読んでいたからであった。「失す」は「うす」と読み、意味は「うせる」である。うせるとは、なくなる、消えるの意で、抽象的なものについていうことが多いという。
 夏の月光を受けて、皿の林檎の紅色が消えたようになった。強い光が物にあたると、白というか光の色というか、たとえば林檎の赤とか葉の緑とか、まさに「色を失(う)す=色が消えた」状態になる。この皿の林檎の紅色が消えたのであった。
 
 今宵の「夏の月」の2句は、どちらも調子の高い作品である。