第五百六十四夜 正岡子規の「蠅」の句

    東西ほくろ考          堀口九萬一
   
 西洋では「ほくろ」のことをグレン・ド・ボーテ(grain de beaut)と云ふ。翻訳すれば、「美の豆粒」と云ふのである。嗚呼何と美しい名ではないか、「美の豆粒」とは!
 だから西洋では日本のやうにそれを抜き取るどころではなく、否却て是を大切にするのである。若し生れつき「ほくろ」のない婦人方は、人工的に是を模造してその顔面に粘置(ねんち)するのである。
 この人工的のほくろのことをフランス語では「ムーシュ」といふ。「ムーシュ」とは「蠅」と云ふ意義である。白い美しい顔の上の黒一点は、恰も白磁の花瓶に一匹の蠅がとまつたやうだといふ形容から来たものださうである。何ものでも美化して形容したり命名したりする処が如何にもフランス人らしくて好いではないか?  『遊心録(普及版)』第一書房より
 
 堀口九萬一(ほりぐち・くまいち)は、日本の外交官、漢詩人、随筆家。詩人でありフランス文学者である堀口大學の父。九萬一の随筆より、「東西ほくろ考」を紹介させていただいた。
 
 今宵は、昨日に続いて「蠅」「蠅叩」の作品を色々と紹介してみよう。

 1・眠らんとす汝静かに蠅を打て  正岡子規 『ホトトギス 新歳時記』
 (ねむらんとす なんじしずかに はえをうて)
  
 2・やれ打つな蠅が手をすり足をする  小林一茶  『現代俳句歳時記』
 (やれうつな はえがてをすり あしをする)

 3・一点の蠅亡骸の裾に侍す  石田波郷 『蝸牛 新歳時記』
 (いってんのはえ なきがらの すそにじす)

 4・蠅叩一本持つて病みにけり  松藤夏山 『ホトトギス 新歳時記』
 (はえたたき いっぽんもって やみにけり)

■「蠅」を考えてみよう。

 1句目、俳句は芭蕉によって文学となったが、今日の俳句は、明治になって俳句革新をした正岡子規が居なければ違ったものになったかもしれない。22歳の頃から喀血、新聞記者の子規は28歳の時に日清戦争への従軍記者として出征したが、帰路の船中で大喀血をした。以降は、ほぼ寝たきりの状態であった。
 掲句は、寝たきりの子規の側に、俳句の弟子と短歌の弟子が代わる代わる寝ずの番をして看病した。眠ろうとしている子規に蠅が飛んでくる。子規は、「もう眠ろうとしているのだから、どうぞ静かに蠅を打っておくれ。」という心持ちを詠んだ。
 
 2句目、句意は、「おい、こんなに小さな蠅を打ってはいけないよ。蠅は今、手をこすり足をこすっている最中なのだから。」となろうか。
 一茶の句は、幼い純な子どもたち、小動物たち、可憐な野の花たちへの愛に満ちているように思う。
 信濃国柏原の中農の家に生まれ、15歳で江戸へ奉公に出た。その間に俳諧と出合い、のちに、江戸を代表する俳人である芭蕉、蕪村、一茶の1人と呼ばれるまでになった。
  
 3句目、石田波郷は、水原秋桜子に師事し「馬酔木」同人、後に「鶴」を創刊主宰する。山本健吉より加藤楸邨、中村草田男とともに「人間探求派」と呼ばれた。入隊中に胸膜炎となり、戦後は俳句の仕事をしながら入退院を繰り返す。病院では〈雪はしづかにゆたかにはやし屍室〉〈七夕竹惜命の文字隠れなし〉〈今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと)〉など死にゆく人を間近にした作品を多く詠んだ。
 掲句は、人間であれ動物であれ、死が近づくと忽ちどこからか現れてくる「蠅」を詠んでいる。「一点の蠅」は、生者に気づかれているかどうか、だが密やかに亡骸の白衣の裾に、お仕えする者ように侍っている。

 4句目、松藤夏山(まつふじ・かざん)は「ホトトギス」の作家。「蠅叩一本持つて病む」とは、単純に考えるならば、夏に病んで臥せっていて、自分で蠅叩を持って蠅を追い払うことができるほどの病人ということであろう。
 深読みするならば、弱っている己に近づくなよ、という「蠅よけのまじない」のようにも思えてくる。
 
 「蠅」が人から嫌われ者であるのは、3句目の波郷の句から感じられるように、死にゆく者の側に、死者の側に必ず近づき群がってくるからであろう。