第五百六十五夜 高浜虚子の「明易」の句

 夏の稽古会が千葉県鹿野山神野寺で行われるようになったのは、「ホトトギス」同人の山口笙堂が神野寺住職になってからである。
 そして昭和29年、神野寺での第1回目の夏の稽古会が始まり、昭和33年まで続けられた。
 この第1回目の勉強会は7月13日から19日まで行われ、若き世代の、東の上野泰、清崎敏郎、深見けん二らの新人会、西の波多野爽波らの春菜会の稽古会は17、18、19日の3日間であった。
 
 最後の19日に詠まれた中の、『七百五十句』掲載の5句が次の作品である。
  明易や花鳥諷詠南無阿弥陀
  毒虫を必死になつて打擲(ちょうちゃく)す
  山寺に名残(なごり)蠅叩に名残
  すぐ来いといふ子規の夢明易き
  蠅叩にはじまり蠅叩に終る

 今宵も昨夜の夏の稽古会の続きである。昭和29年7月19日作の「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」の句を虚子と深見けん二、両先生の考えを学び直してみよう。
 
  明易や花鳥諷詠南無阿弥陀
 (あけやすや かちょうふうえい なむあみだ)

 深見けん二推薦、あらきみほ著の『図説 俳句』の中の[深見けん二インタビュー④]で、先生は「花鳥諷詠」について詳しくお答えくださっているので、そのまま転載させていただく。
 
  Q・虚子に「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」という句がありますが、どう鑑賞したらよいのか難しいと思いました。ぜひ教えてください。
  
けん二―この句は、昭和29年、私も参加した夏の稽古会での作品です。
 その後、「玉藻」の研究座談会で虚子先生から花鳥諷詠を叩きこまれましたが、その時の印象深いことの1つに、この俳句について虚子先生から次のように言われたことがありました。
 「この句は何がどうというのではないのですよ。信仰を表しただけのものですよ。我々は無際限の時間の間に生存しているものとして、明け易いにんげんである。ただ信仰に生きているだけである、ということを言ったのです」
 それ以来、私は、俳句を作りつづける上で、俳句とは何かと考える時に、何時もこの句に立ち帰る生涯のテーマとなった句です。
 明け易い人間というのは、人の命は明け易く短くはかないことです。しかし、花鳥、つまり季題に宿る力といいますか、命というものは宇宙と1つで極めて大きい、いや無限と云えます。その季題の力を信じて、俳句を作れば、自分の力、人間の力を超えたものが俳句に宿る、つまりそうした俳句が出来るという確信めいたものがあります。
 そのことによって一と刻でも、安心が得られます。
 人間には、また人生には、地獄のない極楽はありません。俳句は、その地獄あっての極楽を詠むものであり、その極楽を詠むことにより、ゆとりが出来る。しかも、誰でもが救われるところに、南無阿弥陀仏と同じところがあると思います。
 
  Q・花鳥諷詠と俳句はどう違うのでしょうか。また、「花鳥諷詠」という言葉はとても誤解を受けやすいように思います。
  
けん二―確かに、「花鳥」という言葉は、花と戯れ鳥と遊ぶことを連想しますので、俳句は単なる遊びと誤解されやすいですね。虚子は、定型と季題を破壊した河東碧梧桐の新傾向に反対し、季題を尊重し定型の調べを大事にする意味で、「花鳥諷詠」を唱導しました。
 「花鳥諷詠」ということは、花鳥を、また花鳥を透して心を、調子よくうたうということになるでしょう」とは、虚子先生から直接伺った言葉です。またその時、「花鳥諷詠ということは俳句とシノニム(同義語)です」とも言われました。
 花鳥というのは、自然を代表した言葉で、人事を含む季題のことです。
 俳句界では、プロレタリア文学やモダニズムの影響があり、新興俳句運動が興り、戦後には第二芸術への論議や前衛俳句運動が興りますけれど、「花鳥諷詠」は俳句そのものを表す言葉として、反対運動が起こるたびに、力強いものになったとして、「この一語を残し得たことは私の誇り」と、虚子は言いました。