第六百七十一夜 深見けん二の「曼珠沙華」の句

 昨日、道端で曼珠沙華を見かけていた。今朝の天候を確認し、夫が犬のノエルを連れて畑に行くや、お使いに行ってきまーす、とメモを残して出かけた。
 茨城県守谷住まいは、東京と違って、道路が空いているから1人吟行は2時間もかけずに遊んでくることができる。
 
 行く先は弘経寺。常総市豊岡町にあり、正式名称は『寿亀山天樹院弘経寺』と称し、創建当時は学僧を世に送った有力寺院であったという。徳川家康公の孫の千姫の菩提所である。ほれぼれと見上げるほどの大木は「来迎杉」と命名されている。
 この寺は曼珠沙華の花の名所なので、バスを仕立てて見に訪れる客も多い。
 
 思い切って出かけてよかった。満開になったばかりの曼珠沙華の複雑な花びらも蘂も、そっと触れてみたが力に満ちた手応えであった。
 
 曼珠沙華も複雑な形をしている。「も」と言ったのは、先日「千夜千句」で書いた百日紅(さるすべり)の花もこんな風に複雑な形であった。1つの茎の上に絡み合ったように咲いているが、花の1つは、花びらが5-6枚、6本の雄蕊、1本の雌蕊から成り立っているものが5-6個あって、この全てが1つの茎の天辺に咲いている。
 
 今宵は、「曼珠沙華」の作品を紹介してみよう。どれも有名な句である。

■1句目

  蘂一つ一つに力曼珠沙華  深見けん二 『菫濃く』
 (しべひとつ ひとつにちから まんじゅしゃげ) ふかみ・けんじ

 句意はこうであろうか。花の1つに蘂の数は30-35本ほど。盛りの曼珠沙華は、蘂の先まで栄養がゆきわたり、針金の如くピンと張っている。まさに力が満ちているようだ。

 今日の弘経寺で、私は、この作品を思いながら、蘂をつんつんと弾いてみた。そうしてみたくなるほどの勢いの感じられる蘂であった。また、この句を詠まれた頃のけん二先生の御活躍であった。
 掲句を詠まれたのは平成21年、87歳であった。御高齢になるにつれて益々の御活躍で、2つ目の句碑「人はみななにかにはげみ初桜」を建立された年でもあった。

■2句目

  西国の畦曼珠沙華曼珠沙華  森 澄雄 『鯉素』
 (さいごくの あぜまんじゅしゃげ まんじゅしゃげ) もり・すみお

 句意は、西国には畦にはどこまでも曼珠沙華が咲きつらなっていますよ、となろうか。
 
 西国は、一般的には西の方、とくに関西以西の中国地方や四国や九州を考えてみた。森澄雄は兵庫県に生まれ、九州大学に通っていた頃には、本州西国の地域を汽車で通ることも多かったのではないだろうか。9月の列車からの景色は、田畑の畦にも線路脇にも、曼珠沙華の咲く景色がずっと続いていたに違いない。
 
 掲句は、実際に西国の畦を歩くと作品どおりの景色がひろがっている。電車や汽車の窓からは、畦の曼珠沙華も一緒に走っているように連なっている。
  
■3句目

  曼珠沙華消えたる茎の並びけり  後藤夜半 『翠黛』     
 (まんじゅしゃげ きえたるくきの ならびけり) ごとう・やはん

 千葉県流山市に運河駅がある。ここには利根川と江戸川をつなぐ一級河川の利根運河(人工河川)があり、日本初の西洋式運河である。現在は運河の底をわずかな流れがあるだけだが、堤の広さがすばらしい。
 運河を見渡すなだらかな崖があって、9月の半ばには崖一面がみごとな曼珠沙華に覆われる。
 
 ある時、花が枯れてしまったのだろう、赤が消えて、4-50センチほどの緑色の茎だけが、崖一面に突っ立っているではないか。花はとろけるように消え、茎はしばらく残っていて、やがて茎も消えてしまう。
 後藤夜半の出合った光景は、消えた花のあとに残った茎だけが並んでいる姿であった。

 曼珠沙華は、法華経から出たことばで赤いという意味で、植物名をひがんばなという。傍題に死人花、幽霊花、捨子花などがある。墓場に咲き、有毒植物であることから、忌み嫌う人と美しい花と見る人があるという。