第六百七十夜 山口青邨の「さわやかに」の句

 漫画家赤塚不二夫の「ボクの居候文化論」の1部を紹介してみよう。
 
 「ボクは”居候文化”というものがあり、そしてあり続けるべきだという信条をもっている。売れないヤツが売れているヤツのところに居候して、その間に学び、鍛え、充電する。
 居候させているヤツは、なんいも言わず、それが当然のこととして面倒を見る。そしてその居候が世に出るをもってお返しとする。(中略)
 居候といっても、その立場に居ると心境は複雑で屈折したものとなる。ボクも一度は漫画家をやめようとさえ思ったほどである。その時適切なアドバイスをしてくれ、大金まで貸してくれたのが寺田ヒロオ先輩である。
 手塚治虫先生も、そういった意味では居候文化の頂点にいる人だ。名を成した者、成さなかった者、どれだけ多くの者が彼のタダ飯をたべ、気配りをしてもらったか・・。
 漫画家として、あるいは漫画家でなくとも、居候文化の美点をよーく知るべきだとボクは願ってやまない。(『トキワ荘青春物語』蝸牛社刊より)
 
 豊島区椎名町に1952年から1982年にかけて存在したアパート。漫画雑誌社「学童社」が、自社の連載を持つ漫画家をこのアパートに入居させた。後半であったと思うが、「あっ、ここがトキワ荘!」と、見に行ったことがあった。

 蝸牛社で出版した中で、ベストセラーとなった数少ない1冊であった。たとえば、新宿の紀伊国屋書店から1回の注文が500冊という日もあり、この頃の東販や日販の取次への搬入はトラックであった。売れなくなるとたちまち返品の山となるが、出版人生で、私たちにも、こうした本との出合いが何回か訪れた。
 
 今宵は、「爽やか」の作品を紹介してみよう。

  さわやかに木曽の五木をけふ見たり  山口青邨 『冬青空』昭和27年作 
 (さわやかに きそのごぼくを きょうみたり) (※「さわやか」まま) 

 
 句意はこうであろう。以前から聞いて知っていた木曽の檜(ヒノキ)だが、実際にその育っている御料林に入って見るのは初めてであった。檜ばかりでなく他にもあって、いわゆる「木曽の五木」といい、その立ち姿はなんと爽やかであったことか、となろうか。
 
 青邨一行は、木曽の寝覚の床(ねざめのとこ)などの景勝地を見学し、土地の俳句会に臨んだ後、御料林見学に、森林鉄道に乗り、国有林の中へ入っていった。
 木曽五木(きそごぼく)とは、江戸時代に尾張藩により伐採が禁止された木曽谷の木で、ヒノキ・アスナロ(アスヒ)・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹林のことを指している。
 
 自註自解『山口青邨句集』には、次のような解釈がされていた。
 
 「これらの木はそれぞれ特徴のある幹、枝、葉をもって立っていた。数百年経つという自然の立木である。私はこれらの木の中に立って襟を正すような気持ちで圧倒されていた。この林はこの辺はほんのとばっ口で、御嶽(おんたけ)までつづくということであった。
 さわやかにーーという季題をおくのにかなり苦心をした。また「けふ見たり」も強く感動した表現である。」と。
 
 青邨は、「さわやか」を、現代語のままにして、古語の「さはやか」としてはいない。青邨が現代語と古語を間違って仕上げたりする筈はない。
 この言葉を置くのにかなりの苦心をされたということは、もしかしたら、青邨は、木曽の御料林という閑かさの中に立って大自然の木曽の五木を見上げている自分が、いま感じているままを言うならば「さわやかに」であって、古語「さはやかに」ではないという気持ちであり、素直に從ったのかもしれない。
 「さわやかに」と現代語のままで置くことに苦心した、考える時間の長さかもしれないが、「もの」にも感情があると捉えようとする青邨ならばありそうである。
 
 「爽やか」は、秋のはっきりした快い感じを季題にしたものである、という。