第六百八十二夜 高浜虚子の「野分」の句とその推敲 

 2021年9月26日、台風16号は現在強い勢力で関東沖にあって、明日27日の朝には北上を続け、30日(木)頃からは進路をやや東よりに変えて、10月1日(金)にかけて伊豆諸島近海を通過する予想であるという。東京に隣接する茨城県守谷市は、風はないが空はどんより曇りはじめている。
 
 今夜辺りから風も吹きはじめるだろうか。
 野分(のわき)とは、風台風、台風の余波をいう場合が多いが、俳句では「台風」と同じように用いる。『源氏物語』の中に「野分立ちて肌寒夕暮れのほど」など風雅めく趣もある。また『徒然草』で兼好法師は台風を「野分のあしたこそをかしけれ」と風情を込めている。
 
 今宵は、高浜虚子の「野分」の作品を紹介してみよう。

■1句目

  大いなるものが過ぎゆく野分かな  高浜虚子 『五百句』
 (おおいなる ものがすぎゆく のわきかな) たかはま・きょし

 昭和9年9月21日の作で、句集『五百句』には、次の2句が並んでいる。

  大いなるものが過ぎゆく野分かな
  古の月あり舞の静なし
  
 「句日記」の当日の句は次の8句であった。

  さし添ふる野分に折れし紫苑をも
  野分あと風あそびをる萩の花
  どこやらに虫啼いてをる野分かな
  大いなるもの北にゆく野分かな
  鳩我に身をすりよする野分かな
  夜詣る人ちらほらや神の月
  舞殿の月は昔や鶴が岡
  古の月あり舞の静なし
  
 この日は、「家庭俳句会」が鎌倉の鶴岡八幡宮で昼と夜の月見の2回の句会が行われることになっていた。午前中は雨風が強かったが、午後には雨は止み、風がひゅうひゅう吹いていた。ラジオの時代で、誰もが天気予報を聞いてから駆けつけた。だが風の強い中を女性も含めた一団が、三々五々階段をゆく姿を見かけた人は、勇敢な一団と思われたであろう、と、星野立子の「玉藻」や、「ホトトギス」で記事担当の本田あふひは書いている。
 吟行句会や句会は、よほどの天候であっても駆けつける。
 どんな天候でも、出合った「その時」を、誰もが俳句に詠みたいのだ。
 
 大阪を直撃し、今また鶴が岡八幡境内の強風による被害を目にした虚子は、目には見えない「風」というものに、「大いなるもの」の働きを感じた。「大いなるもの」は「神の意志」と言い換えることができようが、時には不条理とも思える神の御業に対して、人間は、じっと通り過ぎるのを待つより他はない。
 掲句は、当日の句会でも又一年後にホトトギスに掲載する「句日記」でも、この形の「大いなるもの北にゆく野分かな」であったが、句集『五百句』に入れる際の推敲で初めて「大いなるものが過ぎゆく」の形となった。
 
 台風の南風は北上するように北向きに吹くものだが、「北に行く」が「過ぎゆく」と推敲されて、抽象化され単純化された。「過ぎゆく」と表現して初めて、目には見えない「風」という「大いなるもの」が、人間に関わりを持ちながら通り過ぎてゆくという、実感を伴う形となった。
 それが「風台風」「野分」の本質であり本情であろう。
 
 俳句は、作った後に誰もが推敲するであろうが、虚子は推敲した足跡を残らず「句日記」に残し、「ホトトギス」に残してある。後に、『年代順 虚子俳句全集』全4巻、『句日記』が補遺を合わせて全7巻、毎日新聞社刊『底本 虚子俳句全集』全15巻などで、虚子の推敲の前後の作品を見ることができるようになった。凄いことである!
 
 『年代順 虚子俳句全集』第1巻の「序」には、「(略)そういう不始末な私ではあるが、それでも句の書いてある紙片や印刷したものなどは成るべく一と束にしてこれを保存しておくことを忘れなかった。其等の物がホトトギス発行所の戸棚の中に一杯あるのであったが、それを発行所で机を並べて居る井手原太郎君が、多忙の事務のひまひまに整理したり、点検したり、いつの間にか此『年代順虚子俳句全集』という書物を作って呉れたのである。」とあった。
 
 こうして、現在の私達は、虚子の作品の推敲の跡を追うことができるようになったのである。