第六百八十六夜 糸山由紀子の「花すすき」の句

 茨城県に住みはじめたのが23年前であろうか。1番に思ったことが、利根川を越えるとこんなにも薄(すすき)が生い茂っているということであった。薄は、なぜか好きで、突然薄が見たくなると車に飛び乗って、富士山麓まで走った。子どもが赤ん坊の頃も、もう少し大きくなった頃も、後部座席に乗せて走った。
 
 小学生の低学年までは一緒についてきたが、その後は、「お母さんのストレス発散は、どうぞお1人で・・」というふうで、私の心の奥を覗かれていた。
 じつは子どもを車に乗せて行くのは、私自身が、子どもと一緒だと無茶をしないからという「運転のおまじない」であったかもしれない。
 
 この頃は、ストレスの原因を作っている夫と犬のノエルと一緒にドライブに行くのだから・・老夫婦とは「じつに変」である!
 
 今宵は、「薄」「糸芒」「花すすき」の作品をみてみよう。

■1句目

  裏山のつづきの異界花すすき  糸山由紀子 『現代歳時記』成星出版
 (うらやまの つづきのいかい はなすすき) いとやま・ゆきこ

 句意はこうであろう。この花すすきの白じろと乱舞している裏山は、異界という見たことのない不気味な世界へゆく入口へつづいているのですよ、となろうか。
 
 まず、「異界」にドキッとした。異界(いかい)とは、人間が周囲の世界を分類する際、自分たちが属していると考えている世界の外側の異世界のことであり、疎遠で不気味な世界のことであり、霊や鬼が生きる世界のことを指している。
 
 60年以上前の小学生の頃に、当時は拓けていなかった石神井公園の裏山へ、同級生の男の子も含めて4、5人で探検に行ったことがあった。ここは石神井城址で壕も土塁も残っている。三宝寺の奥には抜け穴のようなものがあって、男の子は中に入って、黙って出てきた。今思うと、この穴も異界だったように思う。
 あの時が異界ではなかったか、と感じた瞬間はいくつかあった。

■2句目

  古郷や近よる人を切る芒  小林一茶 『新歳時記』平井照敏編
 (ふるさとや ちかよるひとを きるすすき) こばやし・いっさ

 句意はこうであろう。一茶は信濃国柏原の生まれ。15歳で江戸に出て葛飾派の二六庵竹阿に俳諧を学んだ。方言や俗語を交え、自身の不幸な境遇をユーモラスに詠んだ。夏目成美の庇護もあったが、江戸で成功することはなく古郷に戻った。田舎暮らしの勢いのよい芒の葉は、人が葉先に触れるや、たちまち切り傷ができるほどでしたよ、となろうか。
 
 一茶の俳句も、ユーモアある俳句によって一撃し、ぐさりと心を刺すことが出来そうである。

■3句目

  花薄風のもつれは風が解く  福田蓼汀 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (はなすすき かぜのもつれは かぜがとく) ふくだ・りょうてい
 
 句意はこうであろう。風の強い日、花薄は倒れんばかりに揺れている。ぐちゃぐちゃになったように見える薄の穂だが、揺れているうちにいつの間にか、もつれは消えている。どうやら風が解いたのでしょうね、となろうか。
 
 花薄の滑らかさ、しなやかさによって、もつれても又するりと解かれて、再び揺れ出すのであった。花薄は、風に撓うところが、眺めていて美しく、さまざまに思いを込めて詠むことのできる愉しさのある季題である。