第七百一夜 正岡子規の「葡萄」の句

 牛久沼から国道6号線を北上して、牛久駅の東側に出ると牛久シャトーの入口は見えるほどの近さにあり、ここへ東京から俳句の仲間を案内して2回ほど訪れたことがあった。牛久シャトーは明治時代に建てられたルネサンス様式で、煉瓦造の2階建である。創業者の神谷伝兵衛記念館に入ると、当時のワイン造りが、順を追って分かるようになっている。
 
 代表的な日本ワインの産地は山梨県・長野県・北海道・山形県であるが、茨城県牛久では、日本初の本格的ワイナリーが、明治37(1903)年に作られていたのだ。
 近くの女化原(おなばけはら)という広大な地にぶどう畑があり、この牛久シャトーの中で、「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」という名で製造されている。
 
 広い記念館を散策していたら、敷地の奥の方にぶどう畑が見えた。青葡萄のようであった。
 
 今宵は、大粒の「葡萄」の作品を見てみよう。
  
■1句目

  黒キマデニ紫深キ葡萄カナ  正岡子規  明治35年9月14日
 (くろきまでに むらさきふかき ぶどうかな) まさおか・しき

 句意はこうであろう。この葡萄は、子規の病気見舞いの品で、おそらく大粒の巨峰にちがいない。葡萄の皮は深い濃紫で黒と言ってもよいほどでしたよ、と。

 子規が亡くなる5日前のことであった。「九月十四日の朝」という文章に、葡萄のことが書かれている。こうした文章は、子規はガラス障子越しに庭を眺めながら、1文を口述して虚子に筆記させていた。1部を紹介しよう。
 
 朝蚊帳の中で目が覚めた。尚半ば夢中であつたがおいおいといふて人を起した。次の間に寝てゐる妹と、座敷に寝てゐる虚子とは同時に返事をして起きてきた。虚子は看護の為にゆふべ泊つて呉れたのである。雨戸を開ける。蚊帳をはづす。此際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く潤いに無い事を感じたから、用意の為に枕許の盆に載せてあつた甲州葡萄を十粒程食つた。何んともいへぬ旨さであつた。金茎の露一杯といふ心持ちがした。(『日本文学全集16 正岡子規』講談社)

■2句目

  葡萄樹下木椅子は葡萄守のもの  橋本美代子
 (ぶどうじゅか きいすはぶどう もりのもの) はしもと・みよこ

 句意はこうであろう。大きな葡萄園の中の、たわわに実った葡萄の木の間に木椅子が1つおかれている。この椅子は、葡萄の作業をする人が休憩する時の木椅子なのですよ、と。

 昭和の初め、活躍した男性俳人の水原秋桜子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝は名の「S」から「四S」と呼ばれ、橋本美代子の母・橋本多佳子は、中村汀女・星野立子・三橋鷹女とともに名の「T」から「四T」と呼ばれていた。
 多佳子の4女の美代子は、母に継いで俳人となり、結社誌「七曜」を継いだ。
 
 このように母・多佳子から娘・美代子が「七曜」を継いだことに触れた時、掲句の葡萄園の木椅子もまた、葡萄園の主から主へと継がれ、置かれた木椅子も代々の葡萄守のための重要な憩いの椅子であることが感じられてくる。

■3句目

  ゆるやかに河のみどりは葡萄より  古館曹人
 (ゆるやかに かわのみどりは ぶどうより) ふるたち・そうじん

 句意はこうであろう。大河の縁を歩いてゆくと、ゆるやかな河の流れにみどり色が映っている。対岸を見渡すと、一面のぶどう畑が広がっている。ああそうか。映っていたのは、ぶどう畑の葉と青葡萄の房のみどり色だったのだ。
 
 秋の爽やかな光景である。

 山口青邨が亡くなったのは、昭和63年の年末。年が開けると平成元年に変わった時だ。残された結社「夏草」では会員が多かったことから、「夏草」同人代表であった古舘曹人は、今後の俳句の道筋を考えた。まず、3年ほど「夏草」を続けた。やがて、有馬朗人主宰の「天為」、黒田杏子主宰の「藍生」、斎藤夏風主宰の「屋根」、深見けん二主宰の「花鳥来」の4つの結社への道筋を示した。