第七百夜 正岡子規の「小夜時雨」の句

 正岡子規が亡くなったのは、明治35年9月19日の真夜中のことであった。前日の18日、いつも書を書く紙を貼る板に、唐紙を張らせたのをお律さんに持たせて、仰向けのまま何かを書こうとする。
 当日の介護の番の碧梧桐が、筆に墨を含ませて、子規の右手に渡した。
  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず
  をととひのへちまの水も取らざりき
 絶筆3句は、こうして口もきかずに書き終えた。
 この書板は、そのまま病室の障子に凭せかけたという。
 
 拙著『図説・俳句』を書き終えたとき、私は、お礼参りの気持ちをこめて、上野根岸にある子規庵と田畑の太龍寺の墓所、鎌倉の虚子の墓所の寿福寺を訪れた。
 子規庵は、子規の生前のままに保存されていて、玄関を開けると、母八重や妹律が出てきそうであった。子規の寝所であった部屋の障子の前に、絶筆3句の書板がそのまま立て掛けてあった。
 
 子規庵の庭には糸瓜棚があり、糸瓜の水を今も採れるように瓶が置かれていた。
 強烈だったのは、庭の板壁(だったと思うが)に貼られた子規の身体図で、大きな穴が7つほどもあったことである。穴の部分は真っ黒に塗られていた。子規の病名は脊椎カリエスで、黒い部分というのは、子規の骨髄を冒した結核菌が、背中と腰に開けた穴であった。膿が出るので痛みがあり、妹の律が毎日のように膿をとり除いていたという。
 
 俳人の碧梧桐と虚子、歌人の伊藤左千夫や長塚節たちが交代で、夜昼となく子規の看護をしていた。締切の校正のために一旦自宅に戻った碧梧桐は、夜中に呼びに来た虚子の「升さんお死にだよ」の声で、急いで子規庵に駆けつけた。
 が、もう子規は冷たくなっていた。モルヒネを打っても効果はなく、「ア痛っ・・糞っ・・」という号泣苦悩のままの悶絶の姿であった。

 母八重と律が、布団にきちんと寝かせようとした時だ。
 「サア、も一遍痛いというてお見」
 何だかギョっと水を浴びたような気がした。をばさんの眼からは、ポタポタ雫が落ちてゐた。律さんも眼をしばたゝいて伏目になって・・。
 
 アンパンが好きで、柿が好きで、花が好きな子規。晩年には、痛ければ泣き叫び呻きつづけた子規であった。
 だが子規は、日本新聞に書きつづけ、俳句革新をし、短歌革新をし、文章革新をやりつづけた。何事もやり抜いた一生であった。

 今宵は、河東碧梧桐著『子規の回想』から、子規の最晩年を見てみよう。
 
■1句目

  小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん  明治29年
 (さよしぐれ うえのをきょしの きつつあらん) 【小夜時雨・冬】
 
 句意はこうであろう。子規は虚子や碧梧桐が傍にいるだけで安心した。碧梧桐曰く、「大柄の私より、子規は小柄の虚子が側にいる方が好きだったようだ」と。
 今夜は虚子が子規の看護当番の日、今ごろは上野辺りを、時雨降る中を急いで来ていることだろう、となろうか。
 
 『松蘿玉液』には、「吾が命二子(碧・虚)の手に繋がりて存するものゝ如し。吾病める時二子傍にあれば苦も苦しからず死も亦頼むところあり」と、ある。
 
■2句目

  痩骨ヲサスル朝寒夜寒カナ  明治34年
 (そうこつを さするあさざむ よさむかな) 【朝寒・冬】

 子規は、痩せて骨ばっていた。とくに晩年の痛みは激しく、阿鼻叫喚の日常は激しい運動にも匹敵するかもしれないほどで、太ることもなく痩せていたのであろう。
 子規が寒いと言えば、すぐさま妹の律が来て、看護婦のように骨ばった背をさすってくれるだろう。律は家事をし、寝ながらも仕事をしている子規を、朝も夜も気遣って、妻のように支えていた。

■3句目

  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな  明治35年
 (へちまさいて たんのつまりし ほとけかな) 【糸瓜・秋】

 庭には糸瓜の蔓を棚にまきつかせ、蔓の先を瓶にさし入れて、ヘチマ水を採っていた。ヘチマ水は、昔から化粧水として、また子規のように咳止めの薬として用いられていたのだ。