第七百十八夜 小杉余子の「落葉」の句         

    最後の一葉            オー・ヘンリー

 「最後の一枚だわ」ジョンシ―は言った。「あたし、夜の間にきっと落ちてしまってると思ったわ。風の音が聞こえてたでしょ。今日は落ちるわ。そしたらそのときあたしも死ぬの」
 その日も過ぎていった。そして夜がすっかり明けると、蔦の葉はまだそこにあった。
 「あたしいけない娘だったわ。あたしがどんなにいけなかったかってことを見せるために、なにかが、あの最後の一葉をあそこにおいといたんだわ」
 その日の午後、友のスウがやってきてジョンシ―に言った。「ベアマンさんが、きょう、病院でなくなったのよ。(略)それで――ちょっと、窓の外をみてごらんなさい。あの壁の蔦の最後のはっぱ。風がふいても、ちっともふるえも動きもしないの、変に思わなくて? ねえ、あなた、あれが、ベアマンさんの傑作なのよ――あの人があそこに、最後の一葉が落ちた夜、あれを描いたのね」
 (オー・ヘンリー『最後の一葉』より)
 
 今宵は、「落葉」の作品を紹介しよう。

■1句目

  風といふもの美しき落葉かな  小杉余子 『新歳時記』平井照敏編
 (かぜというもの うつくしき 落葉かな) こすぎ・よし

 国道6号線を北上し、牛久沼から龍ケ崎方面に右折してしばらくゆくと、蛇沼公園がある。初めて訪れたのは東京から茨城県取手市に移転してからである。公園の真ん中に芝生の広場があり、その周りをぐるりと雑木林がある。雑木林の外れから下を覗くと、蛇沼が公園を囲むように横たわっている。
 
 ここの雑木林がすばらしい。櫟や山桜などの高木が多い。休みのとき、心が疲れたとき、犬を存分に走らせたいときに、出かけた。
 
 小杉余子さんの作品で気づいたが、落葉は、風があって、流れるように落葉する景がことに美しい。そうだった。落葉の流れは風の流れであったのだ。「美しき」は落葉にかかると思うが、落葉の頃のきりっと引き締まった風も、目には見えないけれど美しいにちがいない。
 だからこの作品は、上五中七の「風といふもの美しき」の後に、切れがあってほしい。

■2句目 

  落葉して木々りんりんと新しや  西東三鬼 『新歳時記』平井照敏編
 (おちばして きぎりんりんと あたらしや) さいとう・さんき

 西東三鬼は、昭和8年頃から、新興俳句勃興期の「馬酔木」「旗艦」「京大俳句」に、ふいに現れた新興俳句の旗手とよばれた作家。しかし戦後には、有季定型へと変化してゆく。三鬼は、山口誓子の影響を受けた即物的な表現と、対象とじっくり向き合う中で、三鬼自身の「根源俳句」を得た。
 
 掲句は、落葉したあとの裸木となった幹を、凛々しく勇ましく新鮮なものとして、まるで、木々が生まれ変わったかのように眺めている、驚きの眼(まなこ)の三鬼ではなかったか。