第七百十九夜 西山小鼓子の「ふくろふ」の句

 今宵は、「梟」の作品を見てみよう。

■1句目

  ふくろふの森をかへたる気配かな  西山小鼓子 『ホトトギス新歳時記』
 (ふくろうの もりをかえたる けはいかな) にしやま・こつづみし

 牛久沼の高台に、小川芋銭の屋敷と雲魚亭という作品展示室がある。芋銭居から眺める牛久沼は、竹林と椿の大木に覆われて、沼面はほんのわずかしか見えない。
 芋銭のことを調べてゆくうちに、芋銭と西山泊雲の交友を知ることになった。画材を求めて旅をする芋銭は、泊雲の住む丹波に長逗留をすることがあった。やがて芋銭の二女桑子が泊雲の長男謙三夫人となり、泊雲の長女敏子が芋銭の三男知可良に嫁いだのである。
 
 西山小鼓子とは、兵庫県丹波市の西山酒造場の四代目西山謙三の俳号である。謙三は、西山酒造の三代目の父泊雲を継ぎ、さらに俳句という衣鉢も継いだ。俳誌「草紅葉」を主宰。
 
 西山酒造では、純米大吟醸酒「小鼓」という銘酒がある。俳句の師である高浜虚子が「こゝに美酒あり名づけて小鼓といふ」と、言ったように、「小鼓」の名は虚子が付けたものである。名づけただけではなく、当時の「ホトトギス」誌上で宣伝をし、西山泊雲の会社を手助けした時期があった。
 
 句意はこうであろうか。小鼓子の住む兵庫県丹波市は自然豊かな地で、近くの森ではふくろうの鳴き声が聞こえていた。ある日、そのふくろうの声が聞かれなくなった。どうしたのだろうか。もしかしたら、別の森へ移っていったのかもしれない。
 ふくろうの鳴き声は「ホー、ホ―」と静かな声ではあるが、いつも聞こえる鳴き声がしなくなれば気になるものである。
 小鼓子は、そうした全てが「気配」であると詠んだ。

■2句目

  梟淋し人の如くに瞑る時  原 石鼎 『原石鼎全句集』
 (ふくろうさびし ひとのごとくに めつむるとき) はら・せきてい  

 医者を志すも上手くいかない若き日、原石鼎は、吉野で兄の診療所を手伝っていた。やがて、石鼎は「ホトトギス」へ投句するようになり、虚子に作品を認められ、「進むべき俳句の道」の1人として記事で紹介された。
 虚子からは「豪華・跌宕(てっとう)」の作品と言われた。「跌宕」とは細かなことにこだわらないのびやかな作品ということで、渡辺水巴、前田普羅、飯田蛇笏、村上鬼城、原石鼎という大正初期の「ホトトギス」の第1次黄金時期に活躍する、1人となった。
 
 掲句は吉野山中での作。初句は、大正9年1月号「ホトトギス」の巻頭句9句中の1句で、〈木兎(ずく)さびし人の如くに眠るとき〉であった。どの時点で推敲がなされたのか調べることは出来なかったが、原句の「眠るとき」を「瞑る時」と「瞑」の文字としたところが印象的である。

 フクロウは眠っているわけではなく、目を瞑(つぶ)っていたのであった。
 
 石鼎が吉野で見かけたフクロウは、目をつぶっていた。フクロウの顔は人間の顔のように大きい。また、人間が目を閉じるのと同じ様子であり、人間が淋しいときに目をつぶって沈思黙考している姿と同じで、フクロウも淋しかったから目をつぶったのであろう、と石鼎は考えたのだ。

 「瞑る時」を私は、「つぶるとき」でなく、「めつむるとき」と仮名をふった。